養老5年(721年)から続く歴史あるお寺です。
お話好きなボランティアガイドさんに案内され、勉強になりました。
新田義貞公の墓所があり、貴重な鎧も拝見しました。
明智光秀が十年ほど一家で過ごしたと言われている場所でもあるようです。
菩提樹の実が、葉から直接繋がってついているのを初めて知り、この目で見ることができたのも驚きでした。
もっと広く知られて、見に行くべき場所のひとつだと思います。
明智光秀の関係あるお寺という事でおとずれました。
駐車場は整備され、綺麗なトイレもあります。
案内板も整備され迷うこともありません。
住職の方でしょうか挨拶するとせっかくだからと本堂に招き入れて頂きました。
貴重な歴史像の数々を間近で拝見させて頂きました。
ありがとうございました。
「細川ガラシャ」のNHK大河ドラマ化したら ここも人気スポットになりそう!
新田義貞公のお墓もありますが、それよりも明智光秀がこのお寺の門前に暮らしていたとの事で訪問。
当時をしのぶことができます。
お寺には駐車場も整備してありますし、ボランティアガイドさんもいらっしゃいました。
ただ墓所がある。
ただそこに墓所がある。
ただそこに新田義貞の墓所がある、という素晴らしさ。
武蔵國一宮とされる小野神社から武蔵國総社大國魂神社へと徒歩で赴く途中に唐突に分倍河原の戦場の碑に出会える。
そこで活躍した者が最期、遠く離れた福井のこの一所に葬られている。
点と点が線で結ばれていく感じ。
明智光秀が10年間過ごし 細川ガラシャが生まれたところであり 新田義貞のお墓があります。
近くにいながら 初めて訪れました。
はやくに訪れておくところでした🙆皆さん是非とも訪れて頂きたい お薦めです🙌
テレビで紹介されていたので近くに来た際に訪問斉藤道三に美濃の地を奪われた明智光秀公が10年にわたり称念寺門前で寺小屋などをして暮らしていたそうです平日だったにで来訪者は他にいなくて寂しい感じでしたが明智の紋桔梗が綺麗に咲いてました。
明智光秀ゆかりの地家紋の花、桔梗が綺麗に咲いていました。
ご住職は、事前に連絡しないと居ないようです(*_*)
明智光秀氏の巡り旅 静かで良い所でした。
明智光秀が10年ほど門前に住んでいたというお寺。
新田義貞の墓所でもあり松尾芭蕉が句を読んだともされている。
地震などの不遇で廃寺となり、檀家の無いお寺となった後も頑張っておられる。
境内には新田義貞の木像や明智光秀も拝んだであろう阿弥陀如来像がある。
2020.3.22現在でも近隣に案内看板も無く、北陸新幹線の工事もあって場所が解りづらく、且つ交錯する道路が非常に危険である。
ほぼ交通量のない農道と、交通量の多い一般道の交差点を通らなければならないが、新幹線工事が行われている場所に「一時停止」などの標識も無い箇所が有り非常に危険だ!新幹線工事で見えない(見えづらい)交通量の多い道路を渡る必要があるが、前述のように「一時停止の表示」もなく危険だ。
お寺さんは一人の檀家も居ないにも関わらず綺麗にされていて、個人で手入れをされている。
阿弥陀如来像の瞳は素晴らしく魅入らせられてしまう。
新田義貞が1338年(延元3年・暦応元年)に越前国藤島の燈明寺畷の戦いで戦死すると、時衆によって遺骸が往生院に運ばれたと『太平記』にある。
この往生院が当寺とされている。
当寺境内に義貞墓所があった。
現存しています。
室町時代には、後花園天皇要出典,や室町幕府3代将軍足利義満、8代将軍足利義政の祈願所となり、そのほか武将の帰依を得た。
門前に明智光秀が、越前国の朝倉義景仕官時に住んでいた。
これは史実とは別に『明智軍記』として脚色され、広く読まれた。
妻を置いて全国武者修行した創作の物語に因んで、松尾芭蕉が「月さびよ明智が妻の咄せむ」と詠んでいる。
後に、徳川将軍家の香華院となって栄えたが、明治政府による版籍奉還の影響で、無檀家無俸禄となり経済的危機にさらされた。
やがて寺はもぬけの殻になったが、それを救ったのは広島県尾道の海徳寺住職高尾玄師であった。
1914年(大正3年)に再建を果たし、1937年(昭和12年)には新田公600回忌法要を執り行った。
その後も福井地震によって存続の危機にたたされるも、多くの人々の協力・支援により、霊園も完備し、今尚人々に愛される寺院となっている。
麒麟がくるを見て知りました。
新田義貞公のお墓にお参りしました。
壁の線の数や本来の門の場所を聞き、あの付近に光秀の寺子屋があったのかな?なんて想像したり楽しかったです。
中には小さいながらお土産屋がありましたが時間が早くてまだ開いてませんでした。
麒麟が来る❗で有名なお寺です。
ご住職の話も面白いし気持ちよく御朱印も書いてくれます。
ボランティアの方々もとても親切です。
大河ドラマ麒麟がくるの主人公、明智光秀ゆかりのお寺です。
10年ほどこのお寺の門前で暮らしていました。
新田義貞公のお墓もありました。
のぼり旗は、地元の織物会社の製品で、すごくお金掛かってます!ボランティアガイドさんの親切丁寧な説明でとても勉強になりました。
すぐ近くで北陸新幹線の工事で高架が走ってました。
駐車場・トイレ綺麗でした。
明智光秀が暮らしていたお寺です。
そして、新田義貞の墓所です。
土日は案内人が優しく説明してくれますし、本堂にも入れます。
御朱印も土日限定!! 住職さんの直筆で二種類から選ぶ事ができます。
静かなこじんまりとした所で、心が洗われました。
明智光秀と称念寺の話を詳しく教えていただけましたすごく勉強になりました😊
さりげなく風情あって気持ちが落ち着く。
明智光秀が斎藤義龍に敗れてから、福井県坂井市にある称念寺で10年間寺子屋をしていました。
南朝の武将、新田義貞公の墓所です。
福井市新田塚で戦死した後、首は京へ、胴はこちらへ来たとのことです。
今の日本を造られた素晴らしい武将だと思います。
新田義貞公に興味がある方は、福井市足羽山にある藤島神社への参拝もお勧めします。
こちらの御祭神は新田義貞公であり、現在は子孫である新田さんが宮司をされております。
是非、新田塚、藤島神社とお巡り下さい。
大河ドラマ記念の御朱印が期間限定であり、2種類の御朱印をいただくことが出来ました。
明智光秀と縁のあるお寺と知り 訪ねてみました 新幹線工事🚧している すぐ脇です中に入ると 住職自らご朱印を書いたり お寺の説明をしたり とても親しみ深い思いがしました。
新田義貞のお墓があります。
また近隣に明智光秀が寺子屋を開いていたとの伝承もあります。
住職さんのお話はそつがなく熟知の内容で時間制限を大幅に過ぎるほど。
観光案内の門戸を広げ、バスのツアーに盛り込んで頂けると良いと思う。
大河ドラマにかけて大いにPRを!長崎遺跡もあります。
称念寺(しょうねんじ)は福井県坂井市丸岡町にある、養老5年(721年)から続く歴史あるお寺です。
南北朝時代の武士、新田義貞の遺骸が手厚く葬られ墓石が建てられています。
永禄5年(1562年)に、美濃を追われた土岐源氏の明智光秀が源氏ゆかりの称念寺を訪ね、門前に寺子屋を建て生活しました。
この話は有名で、江戸時代の松尾芭蕉は称念寺を訪れその頃の光秀夫婦を『月さびよ 明智が妻の咄せむ』と尋ねた後の伊勢の国で、俳句に詠んでいます。
これは、明智光秀の妻の煕子が、朝倉家臣を招いての光秀主催の連歌の会の賄費用に自らの髪を切って売り払った費用を当て、のちの光秀の出世の糸口になったことを詠っています。
夫婦の生活は貧しくとも、住職と連歌や漢詩を詠んで、後の細川ガラシヤもこの地で誕生したようです。
いったときある。
時宗。
新田義貞菩提寺。
戦国時代には浪人中の明智光秀が門前に住居したことから、細川ガラシャ生誕地とも。
新田義貞の菩提寺。
2015.4.25訪問予定。
名前 |
称念寺 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
0776-66-3675 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.9 |
境内に福井県史跡である「新田義貞公」の墓所があり、明智光秀と妻照子の黒髪伝説や、松尾芭蕉の句碑まであり、各歴史の史実が古文書などに残っているなど、歴史ある寺院とわかります。
明治期に一度廃れましたが、地域の有志とともに復活し現在に至るようです。
文化財も多く残っており、明智光秀人気で訪れる人も増えたそうです。
参拝祈念に御朱印をいただいて参りました。