名前 |
信清神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.5 |
のぶせい神社と読むそうですのぶせい)神社信清神社玉野の東の端に信清神社があります。
今では、玉野台団地がすぐ上まで迫っていますが、以前は県道下半田川・春日井線から少し北に入った所で、人家もまばらでした。
言い伝えによれば、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで負傷した落武者が、この地亡くなりました。
その後、落武者の霊を慰めるために村人達が小さな墓石を建てたということです。
墓の北側には小さな池があり、そばに大きな松の木がありました。
この松の大木は昭和の初め頃朽ちて倒れてしまいましたが、その松材でお堂を建て、子供達の「山の子」のこもり堂として使われていました。
そのためか、信清神社のことを近所の人達は「大松様」と呼んでいます。
現在のお堂は、梶田松園(しょうえん)さんが中心になり、二軒家の人々によって昭和57年(1982)に建てられたものです。
「信清神社」の名も、梶田松園さんが命名されたそうです。
この神社には、三つの社があります。
中央にあるのが信清様で、広瀬信次郎という武士の霊が祀られています。
右側にあって風雨にさらされたように見える社は、「山の神」とか「井戸神様」などと呼ばれていたもので、篠原左衛門尉(さえもんのじょう)忠孝と遠山左衛門尉頼房(とうやまさえもんおじょう よりふさ)という二人の武士の霊が祀られています。
この二人の武士も小牧・長久手の戦いの落武者で、以前は二軒家の山の中の沢水のわき出る所の近くにあった小さな墓石が二つあったそうです。
左側の社には、秋葉様と天王様が祀られています。
昭和10年(1935)頃に玉野にはやり病が広まり、二軒家でも何人かの子供が亡くなりました。
そこで、疫病退散を願って津島神社から天王様を迎えて祀ったといわれています。