諏訪明神の子孫と言われる神家の筆頭の屋敷跡。
木春菊の咲く御屋敷に佇むと、ワーズワースの詩「草原の輝き」の一節が脳裏を過ぎります。
「嘗てかくも光り輝きしもの今はなく、草原の輝ける時それが還らずとも嘆くなかれ、残されし者の内に秘められたる力こそ見出すべし」
諏訪明神の子孫と言われる神家の筆頭の屋敷跡。
残念ながら本家は断絶してしまっている。
諏方家を名乗っていた。
ミシャクジ信仰の守矢家と集合した諏訪明神の神長官家に対して分家的な関係と思われる。
中世には士族化して天皇家の争いに呼応した。
散出雲の諜報組織としても機能しており、南朝方についた原因にもなっている。
厳密には阿蘇系を祖とする金刺氏との関係は分かっていないが、婚姻関係はあった様である。
明治の廃仏毀釈において抵抗があったが、最終的には政府に屈する。
乗り込んできたのは西郷隆盛の盟友、旧東出雲王家の筆頭、富家の上官職であった。
東方幻想郷の聖地の一つ。
建物を保護するために、庭に入ることはできません。
あなたは住居の外観しか見ることができません。
(原文)For building conservation you can't enter the garden. You can only see the appearance of the residence.
JR中央本線「茅野駅」から車で約15分、「上諏訪駅」から車で約20分、中央自動車道「諏訪インター」から車で約5分の「諏訪市中洲」に「諏訪上社大祝(おおほうり)諏方(すわ)家住宅」はある。
「諏方氏」は代々「諏訪大社」の「大祝」を努めてきた一族で、「古事記」説話「国譲り(くにゆずり)」における「高天原(たかまがはら)」を追われた「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」の裔「大国主神(おおくにぬしのかみ)」次子「建御名方神(たけみなかたのかみ)」が「建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)」との力競べに敗れて「州羽の海」に逃れたことにはじまるといわれる。
「建御名方神」子孫の「諏訪氏」は、「諏訪明神」の「依代(よりしろ/神霊が現れるときに宿ると考えられているもの)」として祭政両権を有し君臨したというが、江戸時代の藩主「諏訪家」と大祝「諏方家」との祭政分離を経て、1871(明治4)年「太政官布告」による神職の世襲制度が廃止されるまで古代から世襲されて「諏方(すわ)氏」を名乗ってきたという。
しかし、2002(平成14)年9月1日「諏方弘」氏が亡くなって、「上社大祝家」は跡絶えた。
「大祝」の屋敷は、元々「上社前宮」の「神原(ごうばら)」にあったが、16世紀末には本宮近くのここ「宮田渡」の地に移り(「諏方大祝家」の別名を「宮田渡大祝家」ともいう所以になっている)現在残る屋敷は、1830(文政13)年の焼失後、天保年間(1830~1844)に再建されたものだという。
当時は約3,000坪の敷地に約320坪の主屋が建てられ、2棟の土蔵と別荘や「たや部屋(女性が月経や出産時にこもる部屋)」など別棟もそなえていたという。
昭和初期には敷地とともに主屋も約80坪に縮小され、さらに現在の主屋は多く天保期の古材を転用しての改修でさらに縮小されて約43坪になっているという。
当主を失った屋敷は充分な管理が届かず、繁る草木に覆われて無常の姿を曝しはじめている。
諏訪氏はタケミナカタの末裔を称し、代々諏訪大社上社の大祝(おおはふり)として信仰を集めていました。
平安時代初期に諏訪有員が初めて大祝の職位につき、現在の上社前宮を大祝の居館「神殿(ごうどの)」とし、大祝職位式、大御立座神事など上社の重要な神事のほとんどが神殿で行われました。
名前 |
諏訪上社旧大祝邸跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.7 |
古代から中世にかけて大祝(おおほうり)氏は現在の上社前宮に神殿(ごうどの)と呼ばれる居館(城館)を構えていましたが、室町後期~戦国後期に現在地に居館を移したそうです。
戦国末期の戦乱で諏訪は荒廃してしまいました。
徳川幕藩体制になって上州に逃れていた大祝家門は諏訪に帰還し、そのうち諏訪家が藩主となり高島城に入り、大祝職を担う諏方家はこの館に居住するようになったそうです。
大祝諏方家は神職でありながら現人神(生き神)としての地位を保有していました。
幕末までの大祝諏方邸の敷地は、現在の3000坪もありました。
当時の宮川は、前宮の前から蛇行しながら、この大祝諏方邸の北側を――西脇から北東に――回り込むような流路でした。
その河岸湿地・沼地の高台に居館が位置していたようです。
明治維新で広大な敷地と所領は国家に没収されて切り分けられて民間に払い下げられて、分散してしまいました。
身分格差がなくなったのは良いのですが、他方で、美しく広壮な景観と文化財は失われてしまいました。