一族の菩提寺として松尾城内に真田山長谷寺を建立しま...
観光客の為にトイレと駐車場を併設してあります。
参道を歩いて行けば石のアーチは見れます。
墓前に行くには案内看板がないので少し戸惑いました。
正式名:眞田山種月院長谷寺(しんでんさんしゅげついんちょうこくじ)滋野氏海野流真田幸隆(幸綱)夫妻と昌幸の五輪塔が三基並んでいる。
直ぐ隣には幸村(信繁)の供養塔もある。
1547年に真田幸隆が開いた寺が「真田山長谷寺」です。
長谷寺と書きますが「ちょうこくじ」と読みます。
その名のとおり、長い谷上の台地奥にあります。
武田軍随一の謀将・真田幸隆が開山した真田氏の菩提寺。
境内には幸隆夫妻と昌幸の墓があります。
長谷寺は昔、種月庵と呼ばれていましたが、天文16年(1547年)真田幸隆が晃運和尚を開山として迎え、真田山長谷寺を創建、菩提寺としました。
昌幸の代を経て元和8年(1622年)信之が松代へ移封となり、同地へ長国寺を建立したので、現在はその末寺となり今日に及んでいます。
真田昌幸の子・信之が初代松代藩主となった際に建立したものも同じ読みの長国寺[ちょうこくじ]でした。
もともとは、白山信仰を集めた岩井堂が、もう少し標高が高いところにあり、種月庵(創立年不詳)という住職のいない小さな寺が少し上にあったようです。
境内には真田幸隆夫妻と、真田昌幸の墓があります。
中央が真田幸隆、右が真田昌幸、左が真田幸隆・正室(恭雲院)の墓です。
墓の場所ですが、本堂の右脇奥から山の方へ50mほど入って行くとあります。
真田幸隆が武田信虎らに信州を追われ、上州に数年亡命していました折、面倒を見てくれたのが、安中・長源寺の住職で晃運という人。
武田家が武田晴信に代替わりすると、真田幸隆は自ら武田晴信に随身し、村上義清から戸石城を奪うことに成功しました。
そして旧領を回復して真田の里に復帰します。
真田幸隆は、上州安中から約束通り晃運和尚を呼び寄せて長谷寺の開基に招きました。
関ケ原の戦い後は真田信之の上田領として残りますが、真田信之も松代城に転封となった際に、長谷寺も松代城下に移り、こちらは長国寺になったそうです。
墓所には、苔の生えたいたる場所に同種のコイン6枚をお供えして、「真田六文銭」に縁起をひく参拝者が多いようです。
引用。
朝早くお参りさせて頂きました。
扉を開けてお参りしてください、という貼り紙があったのでそうさせて頂きました。
右側の机上には写経をどうぞ、とあり、それも体験。
願い事も書いて納めてきました。
とてもリフレッシュできました。
耳をすますと真田の息が感じられる。
六文銭の魂、ここに眠る。
真田氏ゆかりの神社☺️なんといっても真田幸隆と昌幸の墓があるのに感動👍季節毎にいろんな花が咲きそうです🌸真田ファンは絶対押さえておきたいスポットです‼️
まー不在で御朱印も書き置き置いてて、助かるっちゃー助かるけど。
やるき茶屋無いのかな。
信綱寺より嬉しいわ。
あそこはもう、いかん❗
真田氏の菩提寺です。
駐車場も充分にあり、参拝しやすいです。
御朱印はコロナ対策のため、書き置きです。
真田家菩提寺です幸隆公、幸隆夫人、昌幸公の墓所があります。
桜が有名ということで、行きましたが、まだツボミでした。
咲けば綺麗だと思います。
たぶん来週辺りか、見頃かな…と思います👍️
上田市真田地区にある曹洞宗の古刹です。
真田氏の墓所があります。
枝垂れ桜が綺麗な場所です。
東御市滋野=菅平を結ぶ県道4号線(昔で云うところの菅平有料道路)を走っていると『長谷寺』入り口の看板を発見。
『長谷寺』は全国に相当数あるみたいです。
最も『はせでら』と読んだり『ちょうこくじ』と読んだり。
有名なのは『鎌倉』ですが、此処『真田』の『長谷寺』は『真田昌幸』のお墓がある事で有名です。
細い舗装路を登り詰めると広い駐車場が在ります。
石段の一番下には『曹洞宗』独特の『枡形』と『禁葷酒』の石碑。
見事な松や桜の老木はさすが名古刹です。
石段の上には独特な形をした山門が在ります。
境内に入り本堂前を見て驚き!藁馬ですかね。
本堂の扉は閉まっていましたが、自由に開けてご本尊を拝観することが出来ます。
県道4号線を菅平方面に進んでいると長谷寺と書かれた案内看板があります。
分岐にぶつかったら山に向かって左折した先に駐車場がありました。
私が訪れた時、私はこのルートを知らなかったので国道144号線から集落を抜けて長谷寺へと向かいました。
集落を抜けると車がやっとすれ違いができる程度の幅しかない道に出ました。
後でネットで調べてみたところ、私の進んだルートというのは自家用車でもバスでもあまり通行をおすすめ(通行が困難と紹介されている)されていないと掲載されていました。
通行してみてわかりましたが特に冬期間は特に難しそうでした。
長い石段を上がっていくと、何やらとても賑やかでした。
何かしらの祭りをやっていたようでした。
御朱印をいただいて真田氏のお墓があるという本堂の裏にある場所へ参拝しました。
長谷寺の墓所では真田隆幸公夫妻と真田昌幸公の菩提を預かっているということでした。
墓所には小さな石塔が3つあって、石塔の近くには小銭で作られた6門銭が置かれていました。
6枚の同じ種類の硬貨が6門銭のような形に置かれていました。
中には5円玉のように穴のある硬貨を使っている参拝者の方もいらっしゃいました。
祭りという忙しい中でもお寺の方はとても親切に対応して下さいました。
駐車場は数ヶ所あるので停めやすいと思います。
駐車場にいくまでは大変でしたけどね。
ここはぜひ訪ねてほしいです。
真田昌幸や幸隆のお墓があります。
苔むした不思議な雰囲気です。
駐車場あり、自分達は800m下の山家神社からの登りましたがけっこうな坂道でした。
垂れ桜が多くよい雰囲気でした。
真田昌幸様、幸隆様と奥さまのお墓がありお参りさせていただきました。
五円玉、十円玉などで六紋銭がたくさん供えられていました。
(詳しい事は他のサイト等にお任せしますが)真田家の菩提寺であり、真田幸隆夫妻と昌幸公の墓所のある古刹です。
歴史好きの長男を連れて家族と共に、5月2日に参拝させていただきました。
太平洋側で生まれ過ごす私には、この時期にあっても陽は温かでしたが少し風が吹くとひんやりする感じでした。
風を遮る上着が1枚あると良いです。
アーチ型の石門の先にある境内にはしだれ桜の美しさと清々しく優しい空気で満ちていました。
御朱印をいただいく際にとても丁寧な対応をしていただきまして兄弟そろって喜んでおり、良い思い出ができました。
駐車場より地形に合わせた作りで鳥居がすこし変わった形?西洋風なのに六文銭が彫られてます、文献だと天文16年に真田幸隆公が松尾城内に建てて、安中の長源寺の僧を呼んだのがはじまりとのこと、お寺は合戦やら度重なる火災に見舞われているみたいで現在は昭和に入ってからの建物ですが雰囲気も良く桜も良い枝ぶりで、本堂にもあがって参拝できますよ、
天文16(1547)年、信濃国の在地領主であった真田幸隆が、畏敬する伝為晃運禅師を開山第一世に招き、一族の菩提寺として松尾城内に真田山長谷寺を建立しました。
その後、永禄7(1564)年に松尾城外へと移され、本格的な禅寺として諸施設を整えました。
江戸幕府が開かれると、幸隆の孫にあたる真田信之は上田藩主となりますが、元和8(1622)年の松代移封にともなって現在の場所へと移転し、寺号も長國寺と改めた。
真田信之霊屋の裏手が真田家墓所となっており、入部以来の歴代当主とその家族の墓や真田幸隆・信綱・昌幸3代の供養塔、大正時代に建立された真田信繁(幸村)・大助父子の供養塔が立ち並んでいる。
滋野氏海野流真田幸隆(幸綱)夫妻と昌幸の五輪塔が三基並んでいる。
直ぐ隣には幸村(信繁)の供養塔もある。
季節的に新緑が綺麗で鶯の声が心地よく、色んな種類のお花も咲いていて、奥へ行くと小さな池にたくさんのおたまじゃくし。
更に奥へ向かうと杉林に光が注ぎ清々しい空間でした。
ソメイヨシノとしだれ桜が同時に満開です🌸人も少なくて、かなり穴場ですね👍
5時にいって、鐘を鳴らさせてもらいました。
5時は5回なので、きっと、6時は6回…だと思います!!真田家の墓もあった。
今度お参り?します!!!すごい良いところです☆
武田軍随一の謀将・真田幸隆が開山した真田氏の菩提寺。
境内には幸隆夫妻と昌幸の墓があります。
長谷寺は昔、種月庵と呼ばれていましたが、天文16年(1547年)真田幸隆が晃運和尚を開山として迎え、真田山長谷寺を創建、菩提寺としました。
昌幸の代を経て元和8年(1622年)信之が松代へ移封となり、同地へ長国寺を建立したので、現在はその末寺となり今日に及んでいます。
名前 |
長谷寺 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
0268-72-2040 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.1 |
2022/11真田幸隆公と昌幸公のお墓があります。
静かで良い場所。
なんだかパワーを感じました。