茶々丸のおうち、駐車場がない。
室町時代の堀越公方 足利政知の御所があったと伝えられる場所です。
今は広い草原になっています。
当時、相当大きな館があったことが想像できます。
この地には「堀越公方」と呼ばれた足利政知の御所があったと伝えられています。
「堀越公方」は、戦乱で混乱した関東地方を直接支配するため、8代将軍の足利義政が、幕府の出先機関である鎌倉府の長に「鎌倉公方」に、兄の足利政知を任じたことが始まりです。
鎌倉公方に任じられた政知ですが、戦乱のため関東(鎌倉)まで行けず、韮山の堀越の地に御所を構えました。
また、先代の鎌倉公方の息子「足利成氏」が古河で公方(古河公方)と称したこともあり、伊豆の堀越で足止めされた政知は「堀越公方」と呼ばれました。
しかし、この御所は、政知の死後(二代目 茶々丸)、伊勢宗瑞(北条早雲)により滅ぼされます。
また、伊勢宗瑞が堀越御所を攻めた際の戦火により近くの願成就院が焼けてしまったと云われています。
こうして、僅か2代(実質上1代)で滅んだ堀越公方ですが、政知の息子の「足利義澄」が11代足利将軍に就任したため、15代足利義昭までの室町幕府の将軍は全て堀越公方の血筋、この政知の子孫となります。
一方で、鎌倉公方の座をかけて堀越公方と争った「古河公方」ですが、その後3代120年に亘り関東の有力な勢力として存続しますが、最終的には、伊勢宗瑞の子孫である後北条氏に吸収されてしまいます。
ただの原っぱですが、色々と知らべると楽しいです、特に、伊勢新九郎については、ただの素浪人ではない事実も分かってきて面白いです。
伝堀越御所跡(でんほりごえごしょあと)は、静岡県伊豆の国市寺家にある、国指定の史跡である。
室町時代に鎌倉公方として下向した足利政知が関東に入れず、ここに館を構えたとされる。
関東にいた足利成氏が古河で公方を称したため(古河公方)、堀越公方と呼ばれた。
字名にはないが、地元ではこの付近を「堀越(ほりごえ)」と呼んでいる。
発掘調査後埋めされて、2007年現在では更地となっており、説明看板が建てられているのみで、かつての様子を伺い知るような状況にない。
一部は伊豆の国市の土地となっているが、周辺は私有地や住宅地であり、本格的な整備や調査が実施できない状態とみられる。
2008年3月、新しい説明板が伊豆の国市によって設置され、発掘調査時の遺構写真を示して状況を説明している。
関東公方の政務拠点である堀越御所があった場所です。
当時はかなりの規模の建物が建っていたと思われ、背後の守山城や近隣の願成就院との位置関係が興味深いです。
足利茶々丸がキャラクター化されており、今後の地域振興に繋がることを期待します。
堀越公方があったが、北条早雲こと伊勢新九郎に滅ぼされた。
その際、当時は隣接していた願成就院も大火に見舞われたそうだ。
史跡としては特に何もない、ただの草っぱら。
看板によると、史跡公園として整備する計画もあるらしいが、日付はだいぶ前。
反射炉で稼いだお金を、こっちに回してもらいたいものです。
因みに韮山観光をしていると、看板に登場する青い袴の男の子。
誰かと思っていたが、ここに来てようやく判明。
足利茶々丸である。
こんな純粋な感じのイメージは全くないので、全く気付かなかった。
韮山の郷土史だと、もっと良い人だったの解釈がされているのだろうか?
まだ30台前半だった頃、友人と温泉に行った帰りに行った。
北条早雲が野望を開花させたところである。
しかし遺構は一切ない。
だだっ広い原っぱが広がるばかり。
しかし、それが逆に根絶やしにしたことを表してると感じた。
写真撮っておけばよかった。
案内板が無ければ何の遺構もなく、単なる広場かなと思ってしまいます😅😅当時は、京風貴族が好んだ回遊式庭園を持つ広大な敷地に様々な建物が建ち並ぶ大規模な屋敷であった事が近年の発掘調査で判明しました。
鎌倉には入れなかった足利政知、茶々丸の館である堀越御所があったとされる場所。
発掘調査などが行われているようです。
北条早雲がここで足利茶々丸を襲ったことが関東における戦国時代の始まりとする考えもあるので調査が進んで整備されることを期待します。
“戦国時代の始まりの地”と言っていいと思います。
北条早雲が、足利茶々丸を討った歴史的なところです。
所謂”下剋上“ですね。
関東に置ける幕府支配の終焉の始まりとでも言えますね。
ただ、残念なのが何もない。
広場があるのみです。
案内板が頼りです。
ホントに惜しいですね。
この地域は、歴史の表舞台なのに整備がほとんど成されていないです😖今後、“北条の里”と共に、整備の計画があるようなので期待しています。
アクセスは、下田街道、韮山簡易郵便局の信号🚥を曲がった所にあります。
室町六代将軍足利義教の次男である政知(まさとも)は、鎌倉公方としての下向を目指したが、結局戦乱に明け暮れる関東に入ることができず、当地に留まって堀越公方を名乗った。
当地はその居館跡である。
政知はその後廃嫡した長男である茶々丸の謀反に遭い、当地で死亡した。
なお、茶々丸も当時興国寺(沼津市内)城主であった北条早雲によって放逐され、堀越公方は滅亡した。
ちなみに北条早雲による堀越公方襲撃をもって戦国時代の始まりとされることから、歴史の曲がり角となった記念すべき地でもある。
毎年夏休みになると親に連れてきてもらってた『電源開発 韮山保養所』が今も現存しているのか探してたら…『伝堀越御所跡』なる史跡になってて驚きました。
名前 |
伝堀越御所跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト |
https://www.city.izunokuni.shizuoka.jp/bunka_bunkazai/manabi/bunkazai/kunishite/denhorigoe.html |
評価 |
3.1 |
北条の里駐車場から北条政子産湯の井戸を探している途中に右手にあります。
ただの原っぱで何もありません。
左手の道を入って突き当りが政子さんの産湯の井戸です。