昔ながらの風情がある場所に見えます。
昔ながらの風情がある場所に見えます。
港町を実感出来る所です。
最高です(原文)최고입니다
昔は造船業でにぎわったんだろうな、と思わせる一角にある渡し。
辺りは造船所や工場、そして出張者か勤務者向けの宿泊施設がある。
昔は賑わったのだろう。
錆びたシャッターの下りた商店が何軒かあり、商店街があった痕跡をなしている。
慶応年間に作られた鳥居と常夜灯が、昭和を思わせる周りの建物とともにいい雰囲気を作っている。
今は津波よけの防波堤に囲まれ、鳥居の場所から海を見ることはできないのが残念だが、この場所が渡船場として今でも使われているのは嬉しい。
この辺りの工場が反映して、いつまでも渡船が残ることを祈りたい。
このドルフィンで黒鯛を釣ることが出来ますよ‼️
ここで生まれ育ち、干潮のときは橋の下に下りて遊び、発泡スチロールの箱に乗って溺れ、造船所の進水式の時には大きな渦を眺めた思い出の地。
現在は津波対策で塀がめぐらされて、あの頃の景色はもう無い。
釣り(原文)낚시
『塚間の渡し』古く鎌倉時代(寛元三年西暦一二四五年)から御穂神社へ詣でる人々や名勝三保の松原への遊客が興津と塚間を結ぶ渡し舟を利用していました。
御穂神社への参道は興津から海路をのぼり塚間から陸路に替え当時約十三丁の道程でした。
特に塚間からの陸参道は「どう者道」といって当時かなりの賑いを呈しその名残りを現在も塚間船着場にある御穗神社の第一鳥居や常夜灯に見ることが出来ます。
塚間の渡しの途中にある貝島には、かつて徳川家康の「貝島御殿」があり、宏大な富士見櫓が建てられ家康の保養の目的と徳川水軍の基地としての目的をになっていたと伝えられます。
鎌倉時代から、永い間船司をつとめた三保の領主太田家は御穂神社の宮司と清見ヶ関の関守を兼ね慶長年間には徳川家康からも一〇六石(三保五四石、折戸一七石、駒越三五石)のお墨付が与えられていました。
高山樗牛の「清見潟日記」にも「一月、二月の頃には参宮の道者、興津の駅に下るもの絡駅として絶えず清見寺にて三保に渡り」としるされております。
별루....
名前 |
塚間の渡し |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
3.3 |
ここも三保の重要な歴史のひとつ。
塚間の渡しと御穂神社一之鳥居。