くら寿司の出前を右折した突き当たりにあるお寺です。
今川氏親の正室で義元の母親である寿桂尼のお墓です。
死しても今川の守護たらんという遺命により、今川館の鬼門に自ら建立した龍雲寺に葬られました。
大河ドラマ「おんな城主 直虎」で浅丘ルリ子さんが寿桂尼を演じましたが、これが特に印象に残ってます。
今川義元の母であり今川氏親の正妻である寿桂尼が埋葬されている墓所。
死後も今川氏を守護するべく、本人の希望でこの場所に埋葬されているとのこと。
墓所の場所は看板で分かりやすく表示されているため、なんなくたどり着くことはできるが、菩提寺である龍雲寺の一般的なお墓の場所からはちょっと奥まったところの山中にある。
墓所の背後にあり、今川氏の重要な城である愛宕山城と合わせて訪れたい。
雨の日は石が滑りやすく危ないので注意して進んだほうが良い。
新北街道を静岡から清水方面へ向かって、くら寿司の出前を右折した突き当たりにあるお寺です。
寿桂尼の墓からは静岡市内の千代田、安東方面が見渡せるのは意外ですよ。
1568(永禄11)年に死去した寿桂尼ですが、くしくもこの年12月に武田軍の侵攻によって駿府は陥落し、孫の氏真は掛川城へ落ち延びます。
織田信長が足利義昭を奉じて上洛するのもこの年です。
新北街道を静岡から清水方面へ向かって、くら寿司の出前を右折した突き当たりにあるお寺です。
寿桂尼の墓からは静岡市内の千代田、安東方面が見渡せるのは意外ですよ。
1568(永禄11)年に死去した寿桂尼ですが、くしくもこの年12月に武田軍の侵攻によって駿府は陥落し、孫の氏真は掛川城へ落ち延びます。
織田信長が足利義昭を奉じて上洛するのもこの年です。
今川氏7代氏親の正室である寿桂尼を開基として1565(永禄8)年に開かれた洞谷山龍雲寺には寿桂尼の墓所がある。
寿桂尼は1508(永正5)年に氏親へ嫁ぎ、7代氏親・8代氏輝・9代義元・10代氏真を妻・母・後見人として今川家を支えた。
また、権大納言中御門宣胤の娘だったため、駿府と京文化との接点を結び、今川文化を醸成した。
1560(永禄3)年5月19日、義元が尾張国桶狭間で討たれた後、徳川家康による三河奪取や引間城主飯尾氏が中心として起こした遠州錯乱により、今川氏の勢力は急速に衰えていった。
その中、寿桂尼は10代氏真(義元子)を支え、家臣団をまとめ、収拾し、今川氏を維持しようとした。
そのため、「駿河の尼御台」と呼ばれ、「女戦国大名」としての評価がある。
1568(永禄11)年3月に没し、遺言により、死後も今川氏を守護するため、今川館の鬼門(北東)にあたる龍雲寺に葬られた。
けれども、同年9月には織田信長が足利義昭を奉じて上洛する。
その大インパクトが武田信玄を立ち上がらせ、同年12月に駿河侵攻し、氏親は遠州掛川城に逃亡する。
信玄の駿河侵攻と呼応し、家康も遠州へ侵攻。
武田と徳川に挟まれた上、家臣の離反も相次ぎ、追い詰められた氏親は1569(永禄12)年5月に家康と和議を結び、掛川城を明け渡した。
そして、小田原北條氏を頼って、掛川湊から駿東郡大平城へ去り、今川家は滅びた。
寿桂尼が亡くなって、1年しか経っていなかった。
寿桂尼の墓所には2基の五輪塔とその右手奥に3基の五輪塔がある。
現在、前の五輪塔が寿桂尼の墓と言われる。
しかし、1861(文久元)年に編纂された『駿河志料』には、3基の五輪塔の内の1基が「氏親室なりと云」とあり、どれが寿桂尼の墓かは定かでない。
【参考文献】静岡県日本史教育研究会(2006)『歴史散歩22 静岡県の歴史散歩』山川出 版社本多隆成,荒木敏夫,杉橋隆夫,山本義彦著(1998)『県史22 静岡県の歴史』山 川出版社。
今川氏7代氏親の正室である寿桂尼を開基として1565(永禄8)年に開かれた洞谷山龍雲寺には寿桂尼の墓所がある。
寿桂尼は1508(永正5)年に氏親へ嫁ぎ、7代氏親・8代氏輝・9代義元・10代氏真を妻・母・後見人として今川家を支えた。
また、権大納言中御門宣胤の娘だったため、駿府と京文化との接点を結び、今川文化を醸成した。
1560(永禄3)年5月19日、義元が尾張国桶狭間で討たれた後、徳川家康による三河奪取や引間城主飯尾氏が中心として起こした遠州錯乱により、今川氏の勢力は急速に衰えていった。
その中、寿桂尼は10代氏真(義元子)を支え、家臣団をまとめ、収拾し、今川氏を維持しようとした。
そのため、「駿河の尼御台」と呼ばれ、「女戦国大名」としての評価がある。
1568(永禄11)年3月に没し、遺言により、死後も今川氏を守護するため、今川館の鬼門(北東)にあたる龍雲寺に葬られた。
けれども、同年9月には織田信長が足利義昭を奉じて上洛する。
その大インパクトが武田信玄を立ち上がらせ、同年12月に駿河侵攻し、氏親は遠州掛川城に逃亡する。
信玄の駿河侵攻と呼応し、家康も遠州へ侵攻。
武田と徳川に挟まれた上、家臣の離反も相次ぎ、追い詰められた氏親は1569(永禄12)年5月に家康と和議を結び、掛川城を明け渡した。
そして、小田原北條氏を頼って、掛川湊から駿東郡大平城へ去り、今川家は滅びた。
寿桂尼が亡くなって、1年しか経っていなかった。
寿桂尼の墓所には2基の五輪塔とその右手奥に3基の五輪塔がある。
現在、前の五輪塔が寿桂尼の墓と言われる。
しかし、1861(文久元)年に編纂された『駿河志料』には、3基の五輪塔の内の1基が「氏親室なりと云」とあり、どれが寿桂尼の墓かは定かでない。
【参考文献】静岡県日本史教育研究会(2006)『歴史散歩22 静岡県の歴史散歩』山川出 版社本多隆成,荒木敏夫,杉橋隆夫,山本義彦著(1998)『県史22 静岡県の歴史』山 川出版社。
名前 |
寿桂尼墓所 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.4 |
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寿桂尼墓所🪦今川義元さんのお母様のお墓です❗️