館とありながら、実態は大規模平城の跡。
畠山重忠。
源頼朝の鎌倉幕府でも、もっとも信頼されていたと言ってもよい武将。
頼朝死後、北条時政に陥れられた悲劇の将でもある。
畠山重忠の居館があったと推察される場所。
100名城スタンプは資料館内にあり、入場料無しで押せる。
その奥に100円で入れる資料館あり。
あくまでも、畠山重忠の居館跡というのは推察で、郭や建物跡、堀などはあるが畠山重忠の館跡であったという明確な証拠は無い。
この近辺は畠山重忠の墓所なども多いのでいろいろ探索するのも良いのでは。
畠山重忠の屋敷跡だが、現在の遺構は室町期のもの。
中世城郭の様子がよく分かる。
入館料100円で、出土品を見ることが出来ます。
比企城館跡群なるクリアファイルもついてました。
銭を紐で纏めた塊が興味深かったです。
鎌倉時代は鋳造技術がなく、中国からの輸入品だったんですね、鎌倉殿の影響か、展示室入り口の畠山重忠が大声で自己紹介。
経歴を語り始めます。
歴史館を見てから、城跡を見ました。
城跡は高低差もなく、40分くらいで見渡すことができた。
城主であったとされる畠山重忠の怪力伝説を聞いたからか、曲輪が基本的にだだっ広く、侵入されても戦ったら勝ちますスタンスなのかなと思いました。
(完全に個人的見解)
鎌倉殿の13人で畠山重忠ファンになり、その居住と伝えられている菅谷館跡に行ってきました。
あいにく雨が降っていたので、畠山重忠像を記念撮影して、菅谷館跡はざっと見て回る程度に。
天気が良ければ、東京ドーム3個分の敷地でゆっくり自然観察が楽しめます。
その中にある埼玉県立嵐山史跡の博物館(入館料100円)には、畠山重忠ロボットや回転劇場、展示があり、埼玉県の中世の歴史を学べます。
静かにゆっくり過ごすことのできる学びのスポットです。
今が旬の「鎌倉殿の13人」の1人だった「武士の鑑」と言われた畠山重忠の館が有った場所です。
数年前に訪れました。
初代執権の北条時政に、あらぬ嫌疑をかけられ戦となった時は、この館から出陣したとされています。
来週が「鎌倉殿の13人」の最終回なので、取り急ぎ上げておきます。
(本日は22/12/17です)土塁などの遺構が良く保存されて残っていますが、これは後の時代の扇谷上杉氏や小田原北条氏支配下の時の物でしょう。
畠山重忠の館の遺構は残っていません。
(確か)資料館が併設されていました。
あとは畠山重忠公の像が有りました。
ドラマの俳優はいい男すぎですね(笑)良い演技でしたが。
大河ドラマ最終回の前に是非に。
鎌倉殿の御家人畠山重忠の館跡。
遺構は土塁と空堀が凄く大きくて応時を想像することができる。
お金がかからず楽しめます。
無料駐車場、続100名城のスタンプ、御城印(200円)もラクに手に入ります。
続日本100名城で来たのですが、鳥がすごい集まっていて良いところでした。
ヒヨドリ、メジロ、ヤマガラ、コゲラ、シジュウカラをカメラに収めることができ、コツバメが特に人気で人が集まっていました。
杉山城とセットで周りました。
続100名城に指定されていて、元々は鎌倉幕府の有力御家人として知られる畠山重忠の館跡といわれており、戦国期は山内上杉家の家臣の太田資康が扇谷上杉氏のおさえとして城主をつとめた重要な拠点だったとのことです。
嵐山駅から歩いて20分程度かかりますが、平城なので歩いてまわりやすいです。
大規模な土塁や曲輪もしっかり確認できるので、草が枯れている秋から冬がオススメです。
鎌倉時代に菅谷館の中心部分だった本丸部分は中世館跡の遺構例としては稀少な遺跡とのことで国史跡に指定されていました。
博物館が併設されているので当時の様子も学んで散策できます!
杉山城趾とセットで行きました。
こちらも整備されていて所々に案内板があります。
嵐山歴史館も併設しており御城印はそこで手に入ります。
杉山城跡と同じ国史跡 比企城館跡群の一つで、愛馬を背負って川を渡ったと武勇が伝わる畠山重忠公の館跡。
重忠公の時代より後に城として整備されたとのことで、東京ドーム3個分と敷地はとても広く、特に本郭の土塁はとても高くて堀は深い、比企郡城館跡群で断トツの規模である。
菅谷「館」跡とはなっていますが、館どころではなく実態は戦国時代後期の巧緻を尽くした、後北条流の大規模な城郭です。
保存状態も二の曲輪の土塁が一部失われている他はほぼ完璧で、少し手直しをすれば直ぐに城として現役復帰出来そうですね! (一体何のために?笑)。
源頼朝の重臣として鎌倉幕府の草創を助け、その武勇と清廉さから「坂東武士の鏡」とまで讃えられた畠山重忠の館がここにあったと地元では伝えられています。
約800年が経つ今も地元での彼への尊崇心は並々ならぬものがあって、それで大規模な開発や破壊から城がまもられてきた経緯があります。
ただ今のところ、鎌倉時代にさかのぼる遺構はここでは発見されていないそうです。
北条氏によるライバル排除の謀略により重忠が神奈川県の二俣川で騙し討ちにあって以後は廃れていた館を、戦国時代初期に関東管領家の山内上杉氏が再興したと文献にあるので、館のリニューアル・バージョンアップ工事に伴い元の遺構は全て吹き飛んでしまったのかもしれません。
さて現在残る遺構は前述の山内上杉氏時代のものか、それとも後北条氏が戦国時代後半にさらに近代化改修したものか多少の論争があるようですが、ワタシは後者だと思っています。
菅谷館のすぐ近くにあって、やはり築造年代の争いがあり上杉氏時代のものとほぼ確定した杉山城と比べると、一層その構造の違いがハッキリします。
江戸時代に造られた近世城郭かと見紛う程の、高い土塁と幅広の空堀を菅谷館は持っており、明らかにコレは鉄砲をメインアームとする新時代の戦闘に対応したものです。
杉山城の長槍で殴り合いをする事に最適化された幅狭で浅い空堀とは対照的です。
また本曲輪の出入口の横に設置され、侵入しようとする敵に横撃を加える出枡型土塁は、同一形状同規模のものが同じ後北条系城郭である千葉県の本佐倉城にも見受けられ、後北条氏の城郭設計においては、設置される構造物や土塁の規模、堀の幅等がフォーマット化されていた事がうかがえます。
さらに曲輪内部は必要以上に複雑化させずに、シンプルな構造として広いスペースを確保するのも戦国時代後期の城郭の特徴となっています。
兵の数と物量にモノを言わせる近代戦に必要なのは、大軍を安全に収容可能で大量の軍需物資の集積が出来る場所だからです。
菅谷館はまさしく、そのような汎用性の高い構造になっています。
それに鉄砲の登場に合わせて大規模化した土塁や空堀を、物理的に突破するのは非常に難しくなり、城攻めの現実的なオプションとしては内応を誘うか兵糧攻めをする事がメインになりました。
敵が城内に入って来ないならば内部に複雑な防御施設を設けて、わざわざ兵や物資の移動、連絡を妨げる必要も無い事になります。
このあたりは曲輪を逆に細分化し、それぞれに技巧的な仕掛けを施す戦闘機能のみに特化した戦国時代初期の杉山城と比較してみると面白いと思います。
しかし対応出来る敵の数はせいぜい数百人から千人程度でしょうし、小屋の一軒も建たないような小さな曲輪ばかりで、これでは近代戦の役にはたちません。
車で15分もあれば着くと思いますので、セットで杉山城も見学する事を是非オススメします。
時代を代表する優れた城が、二つも至近に存在する場所はそんなに無いでしょうから。
武蔵嵐山駅から真っ直ぐ1キロほど。
緑の綺麗な雑木林が木陰をつくってくれている。
都幾川と槻川の合流地点にある。
面積122.000㎡の国指定史跡。
畠山重忠の住居跡といわれている。
この住居から鎌倉街道を通って頼朝の元へ馳せ参じたのかもしれない。
ここに立つ畠山重忠の像は鎌倉の方角を向いている。
戦国時代の土塁、空堀、防備の工夫などが見られる。
中世の城跡。
散歩コースとして最適。
この時期は特に新緑が美しい。
鬱蒼とした木々の中に現る畠山重忠像が妙にデカくて不気味。
山城派には少し物足りないけど良く遺構も残っている山城風の平城(館)跡ですね平氏の畠山重忠が源氏に降伏後、重用され鎌倉街道の要衝の菅谷に館を建て横浜から移り住んだのが始まり、戦国期に上杉方の防衛地となり堀や土塁などが作られた、北条に奪われて更に改修されて今の形になったと言うのが通説北条の遺物がまだ発見されていないので確定はされていないらしい嵐山史跡の博物館の駐車場に車を停めれば隣接しています館や石垣などは無く数か所の大きめ平地の曲輪が芝生の公園って感じになってますねしかし遊歩道途中の曵き橋、堀や土塁はかなり大規模でキレイに保存されています北条好きの私なので戯言になりますが、ここの堀や土塁などの造りは絶対に北条製だと思いますよ山城好きは堀に降りたり土塁に登ったりしたいのですが、ここは全て禁止なので平地の散歩のみになります歩けてたら星数一つ増やしてました博物館で比企郡の城跡について調べたついでに少し散策する感じですかね、その後に山城派絶賛の近くの杉山城をセットにして訪れるのがオススメかな※嵐山史跡の博物館はコロナ緊急事態宣言中は休館してます写真は2021.2月。
比企城館跡群のひとつだが既に国指定に指定されていた。
大型の中世城館跡。
続・日本100名城。
近くには同じく、続・日本100名城の杉山城がある。
見学には二つの注意事項があります。
一つめは、菅谷館跡は中世城郭とは違うので一般的に言う天守のある城をイメージしないこと。
期待して行くと城好きな人以外は、ただの公園かと思ってしまう。
二つめは山城とも違うので山登りが大変だな、なんて思わないこと。
山登りは杉山城に任せてください。
というわけで、菅谷館跡はいたって街中の平坦な地にあります。
やはり公園のようになっていますが、堀や土塁はしっかり残っています。
残っているのがそれくらいしか無いのでガッカリ。
なんて思っているそこのあなた!そんな事は無い。
なんなら土塁を飛び、堀を越え、武者ゴッコで楽しんでください。
では、出陣!
鎌倉時代の有力御家人である畠山重忠の居館跡であり、戦国期には北条氏などの手によって中世城郭へ改造された城跡です。
鎌倉時代から戦国時代までの連続的な遺構がしっかりと残っていることから国の史跡にも指定されています。
館跡といってもその実は都幾川を後背にした要害に築かれた本格的な城跡で、堀や土塁の規模はかなりのモノ。
明確に折れを効かせた本郭、二の郭間の堀はかなりの見どころ。
その他、畠山重忠の銅像や博物館などもあります。
行った時はタイミング悪く?流鏑馬祭りか何かやっていた。
人が多かったりロープが張られたりしていて全体をゆっくり見ることができなかった。
やかたという割に広さも堀の深さもかなり大規模な城。
いや他の城は市街地化されてるのが多いからこれだけ残っている城が珍しいのか。
北条義時が主人公の再来年の大河ドラマが放送されたら、沢山の人が訪れるだろう場所。
同時代に生きた悲運の武将、畠山重忠ゆかりの城です。
続100名城にも選ばれています。
楽しめますよ。
嵐山町にある 続日本100名城です。
武士の鑑と慕われた畠山重忠公が居住しました。
鎌倉幕府 源頼朝の信頼が厚く有力御家人として活躍しました。
空堀が良い状態で現在まで保存されています。
館跡ではありますが、どこか懐かしい里山の原風景が日本の四季を感じさせてくれる…そんな場所だと思います。
駅から片道15分ぐらいかな、地味に歩きます。
続100名城のスタンプは博物館の受付で押せますね。
あと、受付の手前に透明な100円リターン式のコインロッカーがあるので、大きなリュックとかお持ちの方は、そこに荷物を置いてから博物館&館跡を巡るとラクでよいです。
全部をサクッと見れば30分、じっくり散策したい方は約1時間といった広さでしょうか。
地元の人の憩いの場って感じがしました。
国道バイパスから博物館駐車場へ入る。
(北から右折で進入不可)駐車場の北に立派な案内板がある。
平坦な砂利道を本丸へたどる。
本丸は土居に囲まれた広場で夏草が勢いよく繁茂している。
オオムラサキ、ホタル方面へ遊歩道がめぐっている。
散歩している地元住民が多かった。
源頼朝の忠臣だった畠山氏の鎌倉時代の居城跡を後世に拡張した壮大な城跡です。
建築物や石垣などはなく土塁や堀だけの土の城ですが、遺構が良く残っていて壮大な工事が行われたことに驚嘆します。
まず歴史資料館に立ち寄り、城域の案内図をもらってそれを見ながら散策しましょう。
ただ案内図が簡略すぎてせっかくの縄張りが分かりにくいです。
ここはぜひ改善を望みます。
鎌倉時代の城郭跡です。
歴史資料館とあわせて見学できます。
ここから、いざ鎌倉へと鎌倉街道を南へと向かいました。
清水太郎の菅谷館(伝畠山重忠)・大蔵館(伝源義賢)探訪記 平成21年11月28日埼玉県比企郡嵐山町大字菅谷にある、菅谷館(伝畠山重忠)を訪れた。
(「P1000221.jpg」をダウンロード)この館の近くの寺院跡から重忠の曾祖父、秩父重綱の名前を記した経筒が発見されており、この地域が、秩父氏(畠山氏)の重要な拠点であった。
現在にみられる遺構は、戦国時代に拡大整備されたものである。
菅谷館は都幾川と槻川の合流地点を臨む台地上にある。
都幾川をはさんで大蔵側(嵐山C・C入口)から菅谷館を遠望した写真。
(「2009_11をダウンロード) 大蔵館は源氏の棟梁六条判官源為義の次子、東宮帯刀先生義賢の館跡である。
(「P1000205.jpg」をダウンロード) 源義賢 保延五年(1139)、のちの近衛天皇である東宮体仁親王を警護する帯刀の長となり、東宮帯刀先生(とうぐうたちはきのせんじょう)とよばれた。
長兄の義朝が無官のまま東国(関東)にくだった後、重要な官職に補任されており、この時点では河内源氏の嫡流を継承すべき立場にあったと考えられる。
翌年、滝口源備殺害事件の犯人を捕えるが、義賢がその犯人に関与していたとして帯刀先生を解任される。
その後藤原頼長に仕える。
康冶二年(1143)頼長の所有する能登国の預所職となるが、久安三年(1147)貢未納により罷免され、再び頼長の元に戻り、頼長の男色の相手になっている(『台記』久安4年1月5日条)。
京堀川の源氏館にいたが、父と不仲になり関東に下っていた兄の義朝が、仁平三年(1153)に下野守に就任し南関東に勢力をのばすと、義賢は父の命により義朝に対抗すべく北関東へ下った。
上野国多胡を領し、武蔵国の最大勢力である秩父重隆と結んでその娘をめとる。
重隆の養君(やしないぎみ)として武蔵国比企郡大蔵(現在の埼玉県比企郡嵐山町)に館を構え、近隣国にまで勢力をのばす。
久寿二年(1155)八月、義賢は義朝に代って鎌倉に下っていた甥の源義平に大蔵館を襲撃され、大蔵合戦に及んで義父重隆とともに討たれた。
享年は30前後とされる。
大蔵館にいた義賢の次男で2歳の駒王丸は、畠山重能・斎藤実盛らの計らいで木曽に逃れ、のちの木曽義仲となる。
京にいたと思われる嫡子の仲家は、源頼政に引き取られ養子となっている。
源義高は木曽義仲の侍女巴との間に生まれた(山吹姫との伝もある)。
比企郡岩倉山大蔵が生まれ故郷であり、七ヶ所の清冷水を汲んで産湯を使った清水冠者又は志水冠者義高と名乗った。
義仲が治承四年(1180)頼朝とともに源行家から以仁王の平家追討の令旨を得て挙兵し、寿永二年(1183)に北陸道を京に攻めのぼる直前、背後を固めるため対立状態にあった伯父頼朝に幼少(6歳)の時鎌倉に送られた。
拙者ブログ「清水八幡(しみずはちまん)と大姫」を参照されたい。
「P1000210.jpg」をダウンロード「P1000211.jpg」をダウンロード「P1000209.jpg」をダウンロード「p1000206_2.jpg」をダウンロード 大石氏は木曽義仲の流れを汲むとされていると木曽大石氏系図「八王子市下柚木伊藤家所伝」にある。
この系図は信憑性に欠けるところもあるが、義仲の次男(?)義宗からとされている。
今後の研究成果をを期したい。
鎌倉時代には畠山重忠が在し、時代が降ると上杉氏や北条氏によって城に改修された。
現在残っている見事な空堀などは戦国時代の北条氏のものだそうです。
館とありながら、実態は大規模平城の跡。
空堀と土塁が綺麗に残り、博物館も一見の価値あり。
名前 |
菅谷館跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0493-62-5896 |
住所 |
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評価 |
3.8 |
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秋晴れの午後に伺いました。
思っていたより広くて郭から別の郭に近道しようとしたら堀と土塁に行く手を阻まれました。
今でも降りて登る気の無くなる深さがあります。
いまだに侮れない館跡でございました。