【山西神社】国武武埼玉郡宮武神社。
高本高城神社(たかもとたかぎじんじゃ)御祭神 高皇産霊命境内社 武之内稲荷神社 牛頭天王 天満宮 天神宮 水神宮 瀧祭神社等由緒高本村 御靈明神社 村の鎮守とす 鎌倉権五郎景政の靈を祀ると云 地蔵院の持(「新編武蔵風土記稿」参照)高城神社は、延長五年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されている式内社に比定されています。
明治初め、当村名主芳三郎が浦和県社寺改役に提出した「武蔵国大里郡高本村三社」に、相上村吉見大神の社家徳永豊洲が文久三年(1863)に当神社の旧社地に接して家を建てた時、地中から「无邪志国・高城神社」とある古代の銅製の鈴を見付けたことを書いています。
この鈴は社宝として現存し、式内社を証明する一つとされています。
また、「安政二年(1855)神職、徳永某古鈴一個を境内より掘出した。
青黒の銅にて古色を帯び、片面先邪志国、片面高城神社とあると云う」とも伝えられています。
鎮座地に移動があり、「明細帳」は「旧社地ハ村ノ北方ナリシガ村民居住ノ後ノ方ニ当タルタメ現在地ニ遷座スル」と記載しています。
また、昭和四年(1929)に、当時の村助役である田所泰造の日記した「延喜式内高城神社誌」は、「和田吉野川の流れに近い中街に古く鎮座していたが、流れが変わり当社は下流の中ノ森(高城街)に流された。
これを神慮であるとして以来この地に祀られる」としています。
いずれにしても、この移転の時期は不明です。
昭和四十五年(1970)に、中ノ森が河川改修地域となり移転を迫られたため、旧社地である中街の現在地へ再び遷座しています。
(「埼玉の神社」より)新編武蔵風土記稿によれば、江戸時代後期の時点で、大里郡高本村の村社は御霊明神社でした。
御霊明神社は鎌倉権五郎景政を祀っていました。
鎌倉権五郎景政は、戦さで片目になったとの伝承がある平安時代の武士です。
近隣の東松山市の正代御霊神社、熊谷市上奈良の豊布都神社(旧称は御霊社)も、鎌倉権五郎景政を祀っています。
鎌倉権五郎景政は平安後期の平氏の武将です。
奥羽で起きた戦乱「後三年の役」(1083~1087)に、源義家にしたがって出陣した時十六歳でした。
このとき戦場で片目を射抜かれますが、それをものともせず奮闘したことで知られる実在した坂東武者です。
本殿近くに古い石祠が多数ありかなり古い由緒がある神社と判る社殿そのものは整備されてからそれほど時間は経っていない様で真新しい内部も綺麗に整理されている。
【山西神社】国武武埼玉郡宮武神社(原文)延喜式内社,武蔵國 埼玉郡 宮目神社。
名前 |
高城神社 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0493-39-0162 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.7 |
大通りを走行中にずっと気になっていたため満を持して参拝。
由緒正しい静かな神社でした。
滞在中もちらほら身軽な出立で参拝する方を多く見かけ、地元の方に親しまれている神社なんだろうなと感じました。
駐車場は結局どこに停めるのが正解か分かりませんでした……。
あと仏滅ではなかったのですが、社務所が開いているように見えず。
御朱印は諦めました。
機会があったらまたリベンジしたいです。