整えられた美しい境内で、古の神々と出会う。
八坂神社(麦倉)の特徴
麦倉八坂神社の御祭神は素戔嗚尊で由緒ある場所です。
古い神社で美しい境内はきれいに整えられています。
祭りは7月7日から16日まで行われていた地域の伝統です。
昔は7月7日から16日の朝まで祭りをやっていました。
特に15日から16日の朝にかけて夜通し神輿を担いで地域中を周りました。
今は神輿が古くなり、又若い人が余りいないので、神輿を担ぐ人が揃わず神社へ出して飾るだけです。
出店も出てかなり賑やかでした。
今は寂しい限りです。
地域の氏神様ですね。
ここの神社は、小さな神社です。
近辺の住民が初詣に見える位ですので、コロナは、心配有りません。
古い神社ですが、きれいに整えられていて美しい境内です。
投票所に変身します。
ポケモンがいっぱいいます。
素朴な、落ち着いた雰囲気のある神社です。
名前 |
八坂神社(麦倉) |
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ジャンル |
/ |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.9 |
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麦倉八坂神社(むぎくらやさかじんじゃ)御祭神 素戔嗚尊由緒当地は「風土記稿」によると明応(1492~1501)頃の開拓で、石川権頭義俊というものが居城を構えて領主となっていました。
石川義俊は、羽生の城主木戸相模と争って敗れ、一村ことごとく廃地となりました。
その時、石川義俊の家臣に鳥海丹後という者がいて、上州に逃れました。
その後慶長(1596~1615)の頃になり、この鳥海の子孫が故郷である当地を再び開発し、更に村に神社を祀りました。
鳥海の子孫が祀った社は、村鎮守である鷲明神社二社をはじめ稲荷社二社・愛宕社二社・牛頭天王社・大神宮・八幡宮・熊野社などです。
このうち牛頭天王社が当神社で、「明暦元年(1655)六月の勧請なり、持明院の持」とあります。
一方「明細帳」には「寛永二年(1625)七月七日勧請、享保十五年(1730)正一位の神位を得たり」とあり「風土記稿」の記載と凡そ五十年の隔たりがみられます。
明治初めの神仏分離により寺の管理を離れて、社号を八坂神社に改め、祭神を素戔嗚命としました。
下って昭和十九年(1944)八月、村社となるに付き祭神名を素戔嗚尊と改めました。
(埼玉県神社庁発行「埼玉の神社」参照)地名「麦倉」の由来明応年間(1492~1501)に、古河公方足利成氏の家臣石川権頭義俊がこの地に陣屋を構えたといいます。
その末裔が、代々この陣屋に住み百人余名の武士が詰めていたと伝わっています。
それ以前はこの地を倚井(よりい)と呼んでいましたが、明応元年(1492)に麦倉と呼ぶようになったといわれています。
(「新編武蔵風土記稿」参照)加須市指定有形文化財「伊勢太廟参拝碑」社殿の手前左側には複数の石祠や石碑と、その中央に巨大な古木があります。
巨木の左側には勝軍地蔵と青面金剛の石像があり、巨木を挟んでその右並びには青面金剛像と出羽三山石碑、そして「伊勢太廟参拝碑」があります。
加須市指定有形文化財「鈴木弘覚翁碑」鈴木弘覚は、三重県三重郡菰野町に生まれ、長ずるに及んで京都に遊び、頼山陽・支峰・広瀬淡窓に学んで勤王の志士と交わり、尊皇攘夷をはかり、追われました。
後に栃木県の庚申山にこもり、戒行に専念していましたが、縁あって北川辺(旧利島村内野)の薬師堂に住みました。
道場を開いて青少年に手習いを教え、特に養蚕を奨励し、実習地を設け、桑を栽培し、優良な種子を配布して農事改良に一生を尽くしました。
明治二十六年(1893)十二月二十三日病没、享年七十二歳でした。
同二十八年(1895)十一月村民相謀って詳伝を刻んだ記念碑を建て、その遺徳を敬慕しました。
書は明治の書家渡辺沙鴎です。
(加須市教育委員会設置「境内案内板」参照)本殿胴羽目には素晴らしい彫刻が施されています。
右面の胴羽目には弁財天と福禄寿。
左面の胴羽目には恵比寿天と大黒天。
背面の胴羽目彫刻は外れて床に置かれているようです。
右面の脇障子に巻物を開いた寒山。
左面の脇障子にほうきを持った拾得。
腰羽目には波間を泳ぐ長寿の亀さんが彫刻されています。
一の鳥居の周り、社号標柱辺りにいくつか置かれている楕円形の石は「力石」です。