北畠親房が結城宗広等と共に関東に勢力を拡大する為に...
【当史跡】は、結城氏の支族である関氏が城主を務め、南北朝時代には、南朝方の「関東六城」(常陸国関城・同国真壁城・同国大宝城・同国伊佐城・同国中郡城:下野国西明寺城)の一つに数えられ南朝方の拠点を形成したが、北朝方の猛攻に落城の憂き目を見ることとなった。
【所在地】は、茨城県筑西市関舘(〒308-0113)である。
小貝川の支流である糸繰川の左岸で、同川の分流が東に分岐する所に突き出る舌状地に当たる。
【藤姓関氏】であり、鎮守府将軍の藤原秀郷(フジワラヒデサト)の血を引く名門結城氏の一族に当たる。
結城家2代当主である結城朝広(ユウキトモヒロ)の四男朝泰(トモヤス)が「関氏」を称した。
その居城である関城は南北朝時代の初期に北畠親房(キタバタケチカフサ)が拠点とするなど、常陸国における南朝方の中心となった城である。
興国4(1343)年、関城主であった関宗祐・宗政親子は高師冬の大軍に攻められて討死し、親房は吉野に戻っている。
【南北朝】高師冬(ウノモロフユ)は、北畠親房と春日顕国(カスガアキクニ)が逃れた関城・大宝城を攻めたが、当時の両城は大宝沼の北畔と南畔の舌状台地に築かれ、三方を水に囲まれた堅城であった。
高師冬は周囲の南朝方を攻略を続けながら両城の包囲を続け、北畠親房は白河結城氏の結城親朝(ユウキチカトモ)に救援を求めた。
だが、関城・大宝城の水路での連絡を絶つことに成功した北朝方に対し、南朝方が来援を期待していた結城親朝は本領である白河荘が北朝側の攻撃にさらされて孤立し、興国4・康永2(1343)年8月に北朝方に離反した。
そして、同年11月11日に北朝方による総攻撃が行われて、翌日に関城・大宝城が相次いで陥落、北畠親房・春日顕国は辛うじて脱出したものの、関宗祐・宗政親子及び下妻政泰は討死した。
【関城書】(カンジョウショ)は、南北朝時代に常陸国関郡の関城(現在の茨城県筑西市)に籠城していた北畠親房が、南朝方の有力武将結城宗広(ユウキムネヒロ、白河結城家)の子である親朝(チカトモ)に対して充てた書状のこと。
全部で約70通に昇るが、特に興国3(1342)年2月15日(康永元年3月22日)付の書状を指すのが一般的である。
全文格調高い漢文によって記された関城書は南朝と自己の苦戦振りを率直に伝える一方で、日本の神代以来の国体を論じ、朝廷に対して忠節を尽くすことが武士の本分であると説いて親朝の決起を促した。
この親房の考えに親朝が納得せずに離反する原因になったようだ。
江戸時代に儒家林羅山編纂の『本朝通鑑』や水戸藩二代徳川光圀が編纂を命じた『大日本史』に採録されて、後世の南朝正統論・尊皇思想に影響を与えた。
【駒城跡】(コマジョウアト)は、下妻市黒駒字奥内47-1に所在する。
東西約120m、南北約180mの城跡の北西部に『駒城址』の碑がある。
駒館、駒楯城ともいわれた。
駒城は小田城(つくば市)、関城(筑西市)、大宝城(下妻市)とともに常陸国における南朝方の戦略的拠点として重要な存在であった。
在地の武将の名は確定できないが、中御門少将藤原実寛(フジワラノサネヒロ)を擁して奮戦し、興国元・暦応3(1340)年5月27日、北朝方の将高師冬は、山川城(結城市)に入り、猛攻により実寛は生け捕りにされ、やがて落城したようだ。
【関宗祐】の墓所は、舌状地の先端部分に当たる傾斜地の西側を切土して設置されている。
【船着き場】は、糸繰川側に所在する。
かつては大宝沼が舌状地に陥入していた所に設けられていたようだ。
【坑道跡】は、八幡神社の西北に存在する。
「日本三坑道」の一つと言われている。
この事は、いかに関城が守り堅固であったかを物語っている。
しかし、時代劇では見聞した経験はあるが、実物で見れるのは貴重である。
【八幡】神社が、城跡の北東部に立地するが、これは鬼門に当たるので当社が置かれたのだろうか?。
大宝八幡宮と同じく誉田別命を御祭神とするのだろう。
この神は源氏の氏神なので共通する何かが存在するはずである。
下妻城は別名多賀谷城とも言われて、佐竹氏と同盟することで茨城県西南部を支配したが、結城氏の下で最初に関城の関舘に入った。
ここから下妻へ進出したようだので、多賀谷氏が原因なのかもしれない。
【せきじょう】から連想すると、筑西市に本社を有する「セキショウ」が頭に浮かぶ。
代表者の名前が、「関」さんである。
関氏一族が落城に際して地縁血縁を頼り、敵方の結城氏の四天王の一人である下館城主の水谷氏に救いを求めたのだろうか?。
平成の大合併前には関城が立地する関舘地区のある旧関城町は下館市と合併し筑西市となった。
この合併の背景に前述の経緯が関係しているものと推測する。
【接道】は、「関城通り」である。
北の起点(茨城県筑西市藤ケ谷1066-2箱守酒店)へは県道明野間々田(56号)線で、中間地点(茨城県筑西市関舘351-5デイリーヤマザキ)へはグリーンライン(県西北部の広域農道)である。
南の終点へは、県道山王下妻(233)線の神明地区で市道・農道によりアクセスすることになる。
【駐車場】は、関城通り沿いの「関城跡案内板」設置箇所に駐車場が2、30台分を砂利敷きで整備し確保されている。
また、関城通りは幅員が広く、路肩も広いところがあるので、交通に支障がない所に駐車可能である。
【トイレ】は、上記の関城跡案内板設置箇所に仮設のトイレが設置されているが、ドアを開けて確認すると、汚物で汚れていたので使用不可状態であった。
したがって、ここに来るまでにコンビニ等で用を済ませてくるのがベスト!。
関城跡で、関宗祐・宗政父子の墓と伝えられる宝篋印塔があります🙏🏻その石質や作風、風化の具合から、つくば市の小田産の御影石で室町期の作かと思います。
塔身の部分は後世に作り直した物。
素朴で城跡らしい雰囲気も感じられる素晴らしい場所。
南北朝時代、北畠親房が結城宗広等と共に関東に勢力を拡大する為に常陸国に入りました。
約五年に渡る関東における拠点となった城です。
うーん、土塁の好きな人は散策すると楽しいかも。
北以外湿地に面していたようで、駐車場から坑道跡へ歩いて行くと徐々に下って行きます。
所々土塁や堀が残っていますが、解りやすいのは八幡神社の社の裏手でしょうか。
南北朝最後の戦いの舞台。
昔は、東西南で堀が、と言うか沼になっている要がいの地ですね。
関城跡は、これ!って物がなかったけど、少し離れた坑道跡は「お〜」ってなる。
南北朝時代に戦いのあった場所。
八幡神社あたりはのどかです。
名所にするのであればもう少しキチンと手入れをした方が良いでしょう。
今の管理状態ではこの史跡がもったいない。
600年以上前、南北朝の動乱期に争われた関城の城跡です。
攻め手の結城氏・守り手の関氏の供養塔や周囲に残る土塁の跡に歴史の伊吹を感じます。
少し離れた神社の裏に攻城戦で掘られた坑道の跡もあります。
このような坑道が見つかるのは大変珍しいです。
当時は三方が沼で囲まれた堅城だったそうですが、付近の田んぼに水がはられるとイメージしやすいです。
2キロほど離れた所にある大宝城跡(関城と一緒に国指定史跡)も、土塁と堀が良好に残っており、こちらもかなり見応えがあります。
後醍醐天皇の側近・北畠親房が、南朝の東国での勢力挽回を願いつつ、敗戦劣勢を繰り返した五つの城の中の最後の滞在先。
場所をしっかり調べて行かないとたどり着けないかも😅。
南北朝時代の貴重な城跡、土塁がまだ残っています。
抗道跡はとても珍しいので、必見です。
茨城の歴史に名が残る場所なんだけど残念です。
歴史的価値の割には、整備されなすぎ?
南北朝時代の関氏の居城。
遺構が多数保存されています。
南北朝争乱において、ここもまた、激戦地となった。
後醍醐天皇の側近北畠親房はここを脱出して奈良、吉野に帰った。
土塁や、空堀が残る国指定の城跡です👆
名前 |
関城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.3 |
僅かに土塁があります。
説明板や石碑もあります。
駐車車スペースあります。