御朱印は本殿脇の寺務所でいただけます。
今年始めて お参りしました 3ばばちゃんと共に出掛けましたよそれで たくさん並んだお地蔵様へ 我が家分のあてしゃんを 作りましたので 全部で 13枚それに お稲荷様のあてしゃんと お掃除これで 今年一年どうぞ宜しくお願い申し上げます🙆
崇福寺のお地蔵様への御参りをしました。
前のお菓子屋さんのとなりに線香とろうそくが販売されています。
駐車場はお菓子屋さんの前にあります。
古く歴史のあるお寺です。
子どもの頃から 祖母に連れられて お参りに行っていた お地蔵様です昔は西鉄の路面電車が通っていて 降りるとすぐでした 降りたそこにお饅頭屋さんがあり いつも お饅頭を蒸す蒸気が出ていましたいまも そのお店は境内にあります。
お寺は歴史感じさせ良いところで落ち着きます。
以前JR九州ウォーキングで黒田藩お墓敷地入れたが。
いつもは閉めてある。
各お墓が広いので植木が伸び過ぎていたり、区画狭い方が管理しやすいよう。
周りの道路はいつまで工事あるのですかね。
永遠に工事中。
クルマで通りにくい。
黒田家の歴代の広々とした墓地。
大きな墓石は重機も無い時代に、どの様に運ばれて据付けされたのだろう?黒田家の財力だけでなく、慕われる藩主であったのだろう。
九州大学病院近くにある福岡藩主・黒田氏の菩提寺。
都会の喧騒さから外れた静かでゆったりとしたところ。
ただ入口に案内板がなく石碑が立っているだけなのでややわかりにくい。
横岳山 崇福寺は、福岡県庁の西側に隣接したところに伽藍を構える臨済宗大徳寺派の寺院です。
仁治元年(1240年)筑紫郡大宰府町横岳の地に随乗坊湛慧禅師によって創建されました。
翌年、聖一国師が宋より帰朝されるや湛慧は国師を迎え 開堂演法を請いました。
国師は宋の経山佛鑑禅師より授かった「勅賜萬年崇福禅寺」の八文字を 堂々と揚げ、崇福寺は名実共に成立しました。
天正14年(1586年)岩屋城落城(島津氏と大友氏の戦)の際、兵火によって堂塔伽藍、 重宝、什物等創建以来350余年にして勝禅院のみを残し しばらくことごとく鳥有に帰しましたが 、その跡に近年、仏殿、開山堂、禅堂、侍物寮、書院、山門、中門等が 大宰府別院として再興された。
慶長5年(1600年)黒田長政公が筑前国主となり大徳寺春屋和尚の請により復興を計画 、大宰府は不便につき現在地に移し、雲英、江月、江雲和尚の三代にわたり総門、御成門、 山門、仏殿、方丈、庫裡、書院、衆寮、開山堂等の伽藍が造営再建され、 慶長17年(1612年)博多の巨商島井宗室の寄進により塔頭瑞雲庵(開山大應国師) 再興しました。
明治になると王政復古となり、本寺も無禄無檀の為、荒廃し、明治11年には三塔頭も本寺に合併廃寺となりました。
明治28年、玄外和尚当寺に住されるや、境内の整備をされ、同39年、当寺の本堂を移して 心宗庵を再興、更に崇福寺に本堂、庫裡再建。
福岡城より本丸表門を譲り受け、 山門とするなど伽藍の再建に尽くされました。
昭和6年には、維精和尚によって開山堂が増築され、昭和10年には鈍外和尚によって雲水 (修行僧)育成の機関として専門道場が設けられるなど旧観に復しました。
広大な境内には、地蔵堂(朝日地蔵)、塔頭寺院である心宗庵などの建物があり、本堂裏手には藤水門があり、そこをくぐれば広大な黒田家の墓所があります。
十日恵比寿神社から、歩いて来ました。
お寺の境内には、石仏が沢山ある。
御朱印ありません。
黒田家のお墓は、境内から見えますが、一度、外に出て回り込む必要あります。
改葬されたようで、すっきりしてます。
臨済宗大徳寺派のお寺。
黒田藩の菩提寺です。
山門をくぐると外の喧噪とは別世界が広がります。
山門外はつい最近まで小さな門前町があり、お菓子や和菓子などを売られていたのですが、近年建物が改装されました。
博多を代表する名刹の一つです。
是非ご訪問ください。
境内の旭地蔵様には小さい頃から守っていただきました。
博多へ帰った時は毎回お参りに立ち寄っています。
これからもどうぞ見守ってください。
御縁日に伺うと、向かって左手にある地蔵院が賑わいます。
手前の売店で絵馬や柄杓、線香、お花、など沢山の物が購入して奉納できます。
ぐるりとお地蔵さまをお参りするとなんとも胸に来るものがあります。
お寺などを拝んだあとは売店の隣が茶店になっているので、是非寄ってみてはいかがでしょう?
名前 |
崇福寺 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
092-651-0398 |
住所 |
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関連サイト |
http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/sp/cultural_properties/detail/54 |
評価 |
4.1 |
玄洋社社員墓地のほかに福岡藩主黒田家の墓もあります。