整備されて綺麗になった。
☆桶狭間古戦場公園の一画兵25000を率い意気揚々と駿河から三河~尾張へ進軍、織田信長を木っ端微塵に粉砕し進撃予定が、田楽坪で落命するとは、無念「今川義元」討死の地⚔️左から「今川義元戦死之地」碑「今川義元公」碑「駿公墓碣(すんこうぼけつ)」碑謎めく石碑は一番右手の『駿公墓碣(墓碣とは…角が丸い墓碑のこと)』、田楽坪に埋まっていた謎の石、誰が何のために建造年なども一切不明、妄想は桶狭間の住民が哀れ織田勢に討たれた今川義元の菩提を弔った墓碣か、敵方の織田家に見つからない様に静かに埋めて祀ったのでしょうか、これも小さな歴史の謎🤔
2022.10.25本陣跡から走ったら1分ほどだ。
急襲されてここまで逃げてきたのだろう。
桶狭間の戦い(1560年)で、織田軍に追い詰められて今川義元が討ちとられた最期の地ですね‼️感慨深いです!
織田信長が討った訳ではないですが、この戦いをきっかけにして天下取りを進めることとなった場所です。
ARで桶狭間の戦いが振り返ることが出来ます。
今川義元が馬の手綱をくくりつけたと云われる枯れ木。
触ると熱病になるとか。
恐ろしい。
出張で近くまで来たので車で来てみました。
現在は小さな公園内に石碑がありきれいに管理されていました。
戦いの末、この地で戦死したと思うと感慨深いです。
2020.12.27訪問昭和時代に入り古戦場であったことを示す「江戸時代の碑石」が発見され、昭和50年代以降に藤本正行や小和田哲男らによって発表された新説にも補完されて、この「田楽坪」も義元戦死地の候補地として桶狭間古戦場公園に整備される。
整備されて綺麗になった。
桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)は、日本の戦国時代の永禄3年5月19日(1560年6月12日)に尾張国桶狭間で行われた合戦。
尾張をほぼ統一したばかりの織田信長と、駿河・遠江・三河を手中に収める今川義元による戦い。
数では今川軍が圧倒的に勝っていたが、信長は僅かな兵を率いて強襲を仕掛けることに成功し、義元をはじめ多くの重臣を戦死させた。
この勝利は織田信長の躍進のきっかけとなり、徳川家康の自立、甲相駿三国同盟の崩壊など数多くの影響を及ぼす事になる。
戦国時代の大きな分岐点であった。
知名度が高い!仕掛けも内容もとてもよい!dioramaが面白い。
桶狭間の戦いで今川義元が討ち取られたとされる場所で、今は歴史公園となっていて、墓碑や、織田信長、今川義元の銅像などがたっている。
訪れた時はたまたま桶狭間の戦い祭りをやっていてたくさんの人で賑わっていました。
桶狭間古戦場公園内に有りますが、駐車場はありません。
隣にホームセンターの駐車場がありますので何か購入すれば利用出来ます。
こちらの古戦場跡はとても明るくて、住宅街があります。
昔、古戦場だったとはとても想像できません。
豊明市の方の古戦場跡はとても静かな感じで、空気が重い気がします。
何故、義元公の墓が二つあるのでしょう?両方ともに無料パンフレットが置いてあります。
ありがとうございます。
今川方の武将 松井宗信の子孫が、東京裁判で死刑の判決を受けた、旧陸軍軍人の松井石根大将だと知って、ビックリです。
確かに名古屋出身ですね。
右は田楽坪で出土した駿公墓碣と刻まれた今川義元墓と思われるもの。
左は昭和に建立された墓碑。
近くには銅像が。
名前 |
今川義元戦死之地碑 |
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ジャンル |
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住所 |
〒458-0913 愛知県名古屋市緑区桶狭間北3丁目1001−1202 |
評価 |
3.7 |
小さな公園になっています♪