高杉晋作が昔潜伏していました。
高杉晋作が元治元年、平尾山荘を抜け出て、この博多の町に潜伏したのが約4日間。
その間の足取りが最近やっとわかってきました。
平尾山荘から少し急ぎ足で歩くと、最初に潜伏した石堂橋あたりの水茶屋「若松屋」後に「常磐居」まで約2時間の道のり。
それから、その目の前にあるのが関所跡です。
今の石堂大橋あたり。
若松屋で月形洗蔵を待っていた高杉でしたが、待てど暮らせど現れないのでついに関所破りを決行。
変装の名人だった(?)高杉さんは、若松屋の使用人が着る半纏を着て、5〜6歳の女の子をおぶって、遊郭に用事があるふりをして関所を突破したようです。
現在の「大浜公民館」このあたりが、旧柳町遊郭街(その後移転して新柳町ができた)です。
柳町の「梅が枝屋」というところを根城にしていたようですね。
-------旧「柳町」は現在の博多区下呉服町から大博町にかけての石堂川(御笠川)沿い。
福岡藩の初代藩主・黒田長政の命で造られた遊郭街で、『福岡町名散歩』(井上精三、葦書房、1983)には「慶長のころ、那珂川の河口に散在していた娼婦を、堅町浜に集め集娼地区とした。
町名の柳町はここの柳があったわけではない。
京都の萬里小路に最初の集娼地帯をつくったとき柳町と名付けたので、福岡もこれにならったもの」とある。
元禄時代に編まれた貝原益軒の『筑前国続風土記』には遊郭の数は19軒で、60~70人の遊女がいたと書かれており、江戸時代を通じて規模はこの程度だったらしい。
柳町の遊郭街が新柳町に移転した理由は結構有名で、1903年(明治36年)、京都帝国大学福岡医科大が対岸の千代の松原に開校し、「遊郭の存在は授業の邪魔だ」と行政当局から移転を強制されたためだ。
新柳町への移転が完了したのは1911年(明治44年)。
医科大開学以降もしばらくは柳町の色町は残っていたわけで、出典は忘れたが、医科大教官の中には石堂川を泳いで遊郭に通い詰めた豪傑もいたという話を何かで読んだ。
柳町の遊郭街跡地は後に大浜小学校(統廃合で廃校)となり、現在は特別支援学校・博多高等学園のモダンな校舎が建っている。
『福岡町名散歩』によると、戦後の一時期、石堂川沿いはスラム街となっていたというが、現在は「大浜河畔通り」というきれいな通りに整備され、ここにもまたマンションが建ち並んでいる。
遊郭街だった過去など普通は隠したがるものだろうが、博多高等学園前をはじめとして一帯の電柱には旧町名を紹介する看板が取り付けられ、それどころか、看板には遊郭があった時代の出来事さえ堂々と紹介されている。
街全体を博物館に見立て、地域の歴史を伝えようという地元市民団体の取り組みだという。
1960年代に行われた町界町名整理により、福岡市では由緒ある古い町名の多くが消滅した。
半世紀以上を経た現在、どこも似たり寄ったりの色気のないマンション街ばかりとなり、古い町名の記憶さえ失われつつあるが、博多部(狭義の意味での博多)だけは先の取り組みのお陰で、旧町名を容易に知ることができ、しかも町の歴史にも触れることができる。
(旧聞since2009より)
江戸初期、現在の福岡市博多区下呉服町に藩公認の遊郭として開始。
1907(明治40)年ごろ現在の中央区清川に移った。
売春防止法施行により、1962(昭和37)年ごろまでにその名を消した。
高杉晋作も通ったとか!
名前 |
旧柳町遊郭街跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
5.0 |
高杉晋作が昔潜伏していました。
歴史を感じます。