此処から、かねつきどーまで登ります。
武蔵野十二社神社御祭神 国常立尊 豊雲野尊 宇比地邇尊 須比智邇尊 角杙神 活杙神 意富斗能地神 大斗乃辨神 淤母陀流神 阿夜訶志古泥神 伊邪那岐神 伊邪那美神境内社 宇賀神 大国主神 八幡大神 天手長男命 八坂大神 大荒神 稲荷大神 諏訪大神由緒(起源と再興)御祭神に天神七代地神五代の十二代の神霊を併せて祀ることから「十二社神社」と呼ばれています。
天神七代とは天地開闢神話に現れる始原の神々で、地神五代の前に日本を治めたという天津神です。
また地神五代とは、天照大神・正勝吾勝勝速日天忍穂耳尊・天津彦々火瓊々杵尊・彦火々出見尊・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊で、神武天皇以前の皇統の祖神です。
伝説によれば、東征の折にこの地を通りかかった「日本武尊」がちょうど新年を迎えることとなり、しばらく滞在し兵馬や食糧の無事を祈願する為に天地十二神を祀り、士気を鼓舞したことが始まりとされています。
当初は、西部の山地権現平に社がありました。
権現平の地名は、当社が神仏分離以前は十二社権現と呼ばれていたことに由来しています。
江戸中期天明三年(1783)の暴風雨による洪水で崩壊し、社殿は流失しましたが、御神体だけが宮地(現在の昭和橋付近)に漂着したことにより、そこに新たな社を設けて祀ることになりました。
明治の初めは村社でしたが、明治後期に政府の合祀政策に従い、明治四十二年(1909)に中郷(近世の原宿村)の八幡神社に合祀され「武蔵野神社」と改称しました。
戦後、村に鎮守を取り戻そうという氏子の願い出により、昭和二十八年(1953)四月に、字濡僧に新たに境内を設けて武蔵野神社から神霊を分祀し、「十二社神社」は再興され、現在に至っています。
節分祭追儺式節分とは、「季節を分ける」ことを意味し、本来は、春夏秋冬の各季節の境目を指していましたが、今日では、立春の前日、冬と春を分ける時期に行われる行事として定着しました。
日本では、一月を「睦月(むつき)」と呼び、今では太陽暦(新暦)の一月のことを指していますが、元々は旧暦の一月(現在の一月下旬~三月上旬頃)の名前です。
この時期は、冬から春へと季節が変る時期にあたり、陰と陽が「交わる(睦みあう)」ことで邪気が発生すると考えられてきました。
その邪気をはらうために始まったのが、追儺式(ついなしき)、いわゆる鬼祓いの行事です。
十二社神社では、桃もしくは梅の木を使って弓矢を作り、恵方に矢を射った後に豆まきを行なっています。
(サイト「埼玉県の神社」より)
此処から、かねつきどーまで登ります。
名前 |
十二社神社 |
---|---|
ジャンル |
/ |
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
3.5 |
周辺のオススメ

ここから鐘撞堂山へ登ってきました。
トイレもありました。
このスグ下にも小さな鳥居と社がありました。