阿吽の像がかっこいいです。
教王山 弘光寺(ハス寺) / / / .
鎌倉殿の13人の御家人畠山重忠の菩提所の白田山満福寺が當山の末寺のようだ!新編武蔵風土記稿でそのように記載されているのを見ました。
弘光寺は七十五ヵ寺を末寺とする。
との事だが時代も下り今はそうでは無いかも知れないが、その事に触れている投稿があるだろうか?また寺族様は承知しているのでしょうか?只、豊山派は共通しているのでその事を否定するつもりは無いのだが、いずれ機会があったら當山に確認をして歴史の検証が出来れば寺マニアに一歩近づけるのだ。
寺マスターは程遠いけど...!
本堂は、大きくて荘厳です。
御住職は、外出されていて、副住職の奥さんに、書き置きの御朱印を頂きました。
寺の歴史なども話して下さいました。
チョット、寂しいです。
静かな場所です。
通りすがっただけ。
深谷市岡部地区で一番広い霊園があります。
教王山仏母院と号す真言宗豊山派の寺院で、大和国初瀬(はせ)の長谷寺の末寺。
御本尊:不動明王・十一面観音。
資料によると、弘光寺の創立年代は明らかではないが、天平十七(745)年、空阿(くうあ)の開基と伝えられている。
その後、法院祐尊(ゆうそん)が中興したので、祐尊を中興開山とする。
祐尊は、応安三(1370)年示寂。
以来数度の災害を受け、寺の荒廃があったらしく、天正(1581)年、鉢形城主 北条氏邦の出した書状に、当時の様子が刻銘に記されている(弘光寺の関係者が寺の復興を計り、氏邦に寺地の寄進を願い出ていたことに対し、これを許可する書状)。
さらに、弘光寺三一世、元廣(げんこう)の代には、徳川家光より三十石の朱印地を賜り、寺勢大いにあがり、末寺及びその他の配下寺院は、七五ヵ寺に達したと伝えられる。
とあります(明治期より前、一部省略)。
同じく針ヶ谷地区にある八幡大神社には、創建は天平十七(745)年で、山城国男山八幡宮(石清水八幡宮)から分霊を勧請した。
別当は弘光寺で、二三世の法印裕尊は、源頼朝の侍念僧として仕え、頼朝が伊豆に配流された際にその命を受けて源家再興のため、当八幡社を祈願所として開運を祈った。
満願の後、頼朝から弘光寺に一五〇貫の寺領と武具類が寄せられた。
その後、天正年中(1573-92)に弘光寺は兵災に罹り寺領・宝物・古文書類の一切を失った。
とあり、それらの事から察するに、もともと古墳時代相当から集落があったこの地域に、745年という奈良時代中期に、それなりの勢力の豪族集団がこの地に住み着き領地化していった様子や、戦国時代の動乱で荒廃していった様子が伺えます。
私事ですが、実家の菩提寺である深谷市後榛沢にある東光寺も、室町時代には、こちらの弘光寺の第一席末寺となっていたとの記録があります(榛沢六郎成清が創建)。
阿吽の像がかっこいいです。
我が家の菩提寺です。
とにかく、びっくり、なぜ😵こんな田舎のなにも無いところに、こんな立派なお寺さんが…国宝級の宝物もあったりして…
とてもゆいしよあるお寺です。
名前 |
教王山 弘光寺(ハス寺) |
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ジャンル |
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電話番号 |
048-585-2856 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.1 |
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とても良いお寺で素敵。