護国神社と大国大神が合祀されています。
資料によると、当社の創建年代は明らかではないが、約0.7km西方の字茶臼山に位置する伊奈利塚古墳の上に祭られていたものをいつの頃か現在地に移したと伝える。
当社の周辺には中世の館跡があり、だんだら山、または馬場屋敷と称されていた。
現在は、わずかに痕跡をとどめる程度であるが、かつては、空堀を巡らししていたと伝えられている。
この館は、山河村が戦国時代に深谷上杉氏の領地であった時、上杉氏により設置されたもので 伊奈利神社は、この館の鬼門除けとして、館の丑寅(東北方)の位置に存在する。
鬼門とは反対側に寺院(昌楽寺)が置かれた。
当社は、嘉永二(1849)年、二月に燈明の火により全焼しているが、神殿は塗替のため長養寺に移されていたため焼失をまぬがれている。
現在の社殿は、嘉永五(1852)年に再建されたものである。
とあります。
と言うことで、戦国時代の当地山河村の領主・深谷上杉氏と、伊奈利塚古墳上の当社の遷座の関係が見えてきましたが、更に掘り下げて考察しますと、永禄四年(1561)、上杉謙信が小田原を攻めようとしたとき、これを知った北条氏康は、配下の藤原某という侍を遣わして謙信を刺さんとしたが、藤原某は、逆に謙信の軍に捕えられてしまった。
ところが謙信は、なかなか勇敢な奴だと誉め、逃がしてやったのだが、某は、恥しくて小田原へ帰ることもできない。
流浪を続けて山河の地に至り、上伊奈利塚の祠で休息をとると、長旅の疲れが出て眠り込んでしまった。
夢に塚の霊が現われ、「汝、もしこの所にとどまって我が霊を祭らば、子孫必ず栄達せん」という声が聞えた。
この神託により、藤原某はこの地に土着した。
その後、某は信心のあまり村の中央に仮宮を建てた。
以来、村人は仮宮にばかり参詣し、本の宮に参詣するものがだんだん減ってきた。
神託を問うと、「村の鬼門の方位に在って氏子を守護す」とのお告げがあったので、現在の森下の地に所を定めて正式に遷座されたという。
と言う資料があり、北条氏康配下だった藤原某氏のこの地への土着と、伊奈利神社の遷座の関りも見えてきて、どこから大神社になったのか、この考証は戦国時代の闇に呑込まれてしまいました。
尚、それでは伊奈利塚古墳の上に祀られていた伊奈利神社の創建はとなると、当社は昔、村の西南部にあった茶臼山に鎮座していた。
茶臼山には、上伊奈利塚、下伊奈利塚という二つの塚があり、それぞれ塚の上に石宮がまつられてあった。
上伊奈利塚の西の丘陵を稲取山といい、伊奈利神社は稲取山の東の麓の塚の近くにあった。
上伊奈利塚の西には鎌倉街道(今の県道)がある。
むかし 戦に敗れた武将が、この地まで逃げ延びて討ち死にした。
伴の一族は、武将を埋葬し、西の稲取山の(古祠の)土を運んで塚を築き、塚の傍らで殉死したという。
その後、武将の妻が弔いに訪れ、そののち、塚の東北約八町の地(森下)に光寂庵という庵を営み、武将と一族の霊を供養したという。
森下の北の地を今も光寂庵という。
(中略)塚は明治35年に帝国大学 坪井博士の鑑定により、千八百年前のものと判明した。
とあります。
四辻の一角が広い境内になっています。
桜の時期はきれいな景色になりそうです。
明るい雰囲気の社でした。
名前 |
伊奈利大神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.6 |
護国神社と大国大神が合祀されています。
元は、伊奈利塚古墳の上に祀られといたとか。