家康の功臣として現在も顕彰されている。
徳川四天王の一人、本多忠勝の像です。
ガッと脚を開き、どっしり座って前を睨んでおり、迫力があります。
もっと、この武将をアピールしてもいいのではないでしょうか。
本多 忠勝(ほんだ ただかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。
徳川氏の家臣。
上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。
忠勝系本多家宗家初代。
本姓は藤原氏。
通称は平八郎(へいはちろう)。
本多忠勝徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の功臣として現在も顕彰されている。
生涯において参加した合戦は大小合わせて57回に及んだが、いずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負わなかったと伝えられている。
一言坂の戦いでの殿軍での戦いぶりを武田軍の小杉左近から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」との狂歌の落書をもって賞賛された。
「本多平八」は本多忠勝のことである。
「唐の頭(からのかしら)」とはヤクの毛で作られた兜のことで、中国四川省やチベット原産(つまり「唐」原産)の日本では珍しい品であった。
一説に寄れば家康は難破した南蛮船からこれを入手し、愛用していたという。
織田信長はその並はずれた武勇を武田征伐後、「花も実も兼ね備えた武将である」と侍臣に紹介した。
天正12年(1584年)4月の小牧・長久手の戦いでは、当初忠勝は留守を任されたのだが、豊臣方16万の大軍の前に徳川軍が苦戦して崩れかけていることを聞き、忠勝はわずか500名の兵を率いて小牧から駆けつけ、5町(約500m)先で豊臣の大軍の前に立ちはだかり、さらに龍泉寺川で単騎乗り入れて悠々と馬の口を洗わせたが、この振舞いを見た豊臣軍は逆に進撃をためらい戦機は去った。
この豪胆な振舞いや活躍などにより、豊臣秀吉には「日本第一、古今独歩の勇士」と称され、また、「東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる」と勇将として引き合いに出された。
関ヶ原の戦い終了後、福島正則は忠勝の武勇を褒め称えた。
忠勝は「采配が良かったのではない、敵が弱すぎたのだ」と答えたという。
徳川四天王、徳川十六神将、徳川三傑。
伊勢桑名藩初代藩主。
とても素晴らしい像です。
尚、この像は平成2年11月株式会社柿安本店さんから贈られたと記してあります。
戦国最強と言われる名将で、徳川四天王の一人。
徳川時代、桑名藩の初代藩主で城下町の基礎作りをし晩年を過ごした。
人生運アップのパワースポット。
平成2年に、桑名城址(九華公園)のすぐ近くにある柿安本店の寄贈により、桑名市在住の中川正知氏が制作、本多忠勝公が出生した岡崎産の石材を使って建てられた。
名前 |
本多忠勝像 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト |
https://www.city.kuwana.lg.jp/kanko/miru/kankospot/kanko011.html |
評価 |
4.1 |
本多忠勝の像です。
詳細などは見つかりませんでした。