規模が小さいが、歴史の参考になるね。
下新河岸跡(舟運遺構) / / .
新河岸川が川越の伊佐沼を水源にしてると言ったら驚いてた人がいた。
徳川家康は川越を兵糧米の生産地と決めた時、荒川の水運を利用するつもりだったらしいが、荒川は文字通りの荒れる川であったがために、大切な兵糧米が失われる可能性があるためにこの案はボツになり、陸上輸送するために川越街道を整備したそうだ。
当時の新河岸川は伊佐沼から流れる小さな流れにすぎなかったらしいが、初代の川越藩主になった松平氏が舟が運航できるように川幅を広げたそうだ。
その理由は、舟を動かすのに流れは不要で、一番吃水が浅い高瀬舟なら深い川が必要ないからだ。
つまり、長い池というかお堀を想像してみたらわかると思うが、伊佐沼の水が溜まれば舟を浮かべられるわけで、昭和の大工事が行われる前までの新河岸川は水を溜めるためにかなり蛇行した流れだったんです。
それは今の新河岸川が濁っていることでわかるでしょう。
舟が運航していた頃は、水が澄んでいたそうです。
名前 |
下新河岸跡(舟運遺構) |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト | |
評価 |
3.3 |
まわりに新築の住宅が迫っていて今後が心配です、行政が動かないとあっという間に失われてしまいます。