いい社殿の神社で無人はもったいない。
御祭神は健御雷之男神。
境内の案内板には「大生神社は健御雷之男神を祭神とする元郷社で、その創祀年代は詳らかでないが、鹿島の本宮と云われ古く大和の飯富(おふ、多氏)族の常陸移住の際氏神として奉遷し、御祀したのに始まるといわれている」と。
また、社伝等から紐解けば、上古、大和国より多氏が氏神と共に(大和国式内社「多坐弥志理都比古神社(多神社)より勧請)当地に移住・奉齋。
神護景雲元(767)年大和国春日大社へ遷宮したが、大同元(806)年藤原氏東征の守護として当地に遷還。
大同2(807)年、鹿島に遷宮して鹿島神宮を創建、跡地に分宮として御分霊を奉齋。
さらに、東家(鹿島神宮社家)文書によれば「大同元(806)年、多神社から遷座し創建」とあります。
明治6年郷社列格。
さらに大礼祭の際には鹿島神宮の物忌(童女の時から生涯独身で神側に仕える女人の最高神官で大宮司より上位)の出輿先でもあることは、当社が鹿島神宮にいかに重要視されていたのかの証左となります。
以上のことからは、当社が”鹿島ノ本宮”・”元鹿島ノ宮”と呼ばれるのも故なきことではなく、神武天皇の皇子である神八井耳命を祖とする多氏から藤原(中臣)氏への祭祀氏族としての勢力交替を物語る記録なのかも知れません。
長くなりましたので、凜として静なる御神域の様子などは写真にて。
以前から参拝したいと念願していた”鹿島ノ本宮”にようやく来られましたこと、誠に幸いです。
御朱印は延方駅近くの鹿嶋吉田神社で直書きして頂きました。
神社の境内には、寒さに弱く茨城県北部が自生の北限とされるカゴノキの老樹があります。
カゴノキの名前の由来は、幹の模様が「鹿の子」に似ている為だそうですが、境内の老樹にもその面影が残っていました。
元鹿島の宮と言われる神社。
この神社一帯は古墳や七つ井戸など面白いとこが沢山あります。
周りを多くの木々に囲まれて、大変立派な神社です。
拝殿本殿共に重厚さと格式の高さを感じ、手の込んだ作りになっていました。
由緒正しい神社だと思います。
大生神社おおうじんじゃ茨城県潮来市大生814祭神t健御雷之男神鹿島神宮祭神に同じ秦河勝が駿河で退治した邪神で民を惑わした氏族の主と関係あるか?
小さい神社ではありますが伝承は由緒あるものです駐車場が無いのですが一応停めるスペースはあります。
いい社殿の神社で無人はもったいない。
十分人を呼ぶ魅力はありそうですが、駐車場等が見当たりませんでした。
本殿の屋根もすごい。
御朱印は鹿嶋吉田神社で頂けます。
ここから真東へ約10㎞(9.4㎞ )に東の一の鳥居がある。
何故か偶然とは思えない。
鹿島神宮の起源が大生神社という事から関連があると思われます。
行くたびに気持ちさっぱりします、静かでオススメする神社です。
とても好きな神社で毎年参拝する神社です。
御祭神は健御雷之男神 鹿島の本宮・元鹿島の宮という呼称もあるようです。
周辺には、大生古墳群と呼ばれる古墳群が広がっています。
駐車場は鳥居の前の左側に何台かとめられる場所があります。
行くたびに気持ちさっぱりします、静かでオススメする神社です。
鹿島神宮より古社、周囲には大生古墳群が存在社伝では多氏が大和から常陸への移住の際、氏神として祀られたといわれる、、元鹿島神宮である😳
鹿島、多氏、中臣氏を語るには重要なところです。
元鹿島神宮があった場所と言われる。
そうだとすると、北浦の西にあった前線基地拠点を現在の鹿島神宮のある東に移したわけだからその方が立地がよかったのだろうが、それはなんだろう。
地元民では鹿島神宮より古いとされているため。
名前 |
大生神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.4 |
鹿島神宮の元宮と言われて要る神社だそうです。