別名「天王城」とも言う。
別名「天王城」とも言う。
県道16号大洗友部線から説明板と空き地が見えるので,そこから北へ歩いて,本丸近くの石碑(高齢者クラブの有志の方々が建立されたもの)までアクセスしました。
説明板には大変要を得た記述が書かれていましたので,引用させていただきます。
「鎌倉時代初期1220年代,鹿島郡領,鹿島三郎成幹の孫,三郎家幹はこの地に土着し宮崎氏を名乗り,領地は宮崎郷の内,五十町と当麻津(鉾田市)を支配していた。
特に水運を押さえる水軍として活躍した初代家幹は,これより南方「きゅうでん掘」と呼ばれている150メートル×100メートルの方形を呈した館に居住していた。
その後,南北朝から室町初期には吉田郡河崎村(水戸市)から,用次,飯岡,菅谷,瀬落(小美玉市,鉾田市)までも領有し,鹿島氏本宗家に並ぶ勢力を持ち,茨城町一番の豪族となった。
又,鹿島大使役として幹親(文永年中)幹詮(建式),(暦応から康永)が三度鹿島神社七月大祭の際使を務めている。
南北朝期には北朝方として北畠親房方の神宮寺城,阿波崎城の攻撃戦闘に参加をしている。
宮崎城は戦乱の時,詰めの城として使用した二本の堀と土塁で別けられた五つの曲輪から構成され,江戸氏の時代(1550年頃)に再整備されてものである。
1416年(応永二十三年)十月上杉禅秀の乱に加担した宮崎氏は,烟田氏,江戸氏らに敗れ,九代200年の永きに渡った茨城町一円の支配を終わる事となった。
この地の北宮,定光院跡地は宮崎氏一族の墓地があり,多数の五輪塔,層塔,宝篋印塔と共に静かな眠りについている。
平成二十六年七月 茨城町文化財保護審議委員 井坂英嗣 宮ヶ崎城跡保存会」なお,宮ケ崎氏の居館は「宮ヶ崎鹿島神社」南方に「きゅうでん堀」(宮ヶ崎古館)という場所がそうで,宮ヶ崎氏の勢力の大きさを示すかなり大規模であったそうですが,今はやはり畑地となっています。
The entrance to the ruin site is from the poster. There is a place at the poster for few cars. It has nice view of Mt Tsukuba. There are no restroom.
名前 |
宮ヶ崎城跡 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
3.1 |
本丸を囲む土塁?を確認できただけでも良しとします。