寺院創建当時からの参道が続いている。
曹洞宗 天寧山 真如寺 / / / .
紅葉が最高です。
山号を天寧山と号し、阿弥陀如来を御本尊とする曹洞宗の古刹で、開基は甲斐の国(山梨県)武田一族から上総の地に侵攻した武田信長の孫である武田信興、開山は関三刹の龍穏寺2世月江正文禅師の高弟である密山正厳禅師、創建は寛正5(1464)年8月8日で、上総の高野山と称されるほど栄えたと伝承されています。
明治元(1868)年4月、戊辰戦争により徳川方の残党500人が当寺院にたてこもり、攻めてきた官軍によって放火され、全ての堂塔伽藍が灰塵に帰してしまいましたが再建され今日に至っています。
当山裏山には、平成26(2014)年に再建された道了尊堂、洞窟内に祭られ焼失から免れた穴不動尊(波切り不動尊)、開基武田信興の墓、開山密山正厳禅師の墓など見応えあります。
広い駐車場とトイレあります。
雑草も刈られきれいなお寺でした。
寺の裏には池があり睡蓮の時期には沢山の花が咲きそうです。
千葉の高野山とか❗️昨年の台風で倒木が多数発生、折角の杜が。
ここのお寺では私は檀家ですが、まだ比較的新しいところです。
お墓の檀家さんを集めていて、たくさんの人に守ってもらいたいと住職さんは言っていますが、現在の住職さんは、偉い方でありながら、自ら進んで山を開拓し、真如寺を作っています。
室町時代中期の寛正5(1464)年、上総武田家の菩提寺として、真里谷武田氏初代の武田信興(真里谷信興)により密山正厳禅師の開山を経て創建されました。
山号は天寧山で上総における曹洞宗の古刹です。
武田家はその後数代にわたって上総一円を支配していましたが、一族間の内紛もあって滅びたと伝えられています。
真如寺は武田家滅亡後も曹洞宗の修行道場として重要な役割を果たし、北条氏、徳川氏の庇護を受け、上総の高野山と称されるほど栄えたと伝えられています。
しかし明治元(1868)年戊辰戦争の際、徳川側義軍の本陣が置かれたことから官軍によって放火され、全てが灰塵に帰してしまいました。
その後、明治33(1900)年本堂の再建に取り掛かりましたが、不慮の失火で焼失、以降は民家を移築した仮本堂で法灯が守られてきました。
開山を果たした密山正厳禅師が亡くなってから500年にあたる平成3(1991)年に檀信徒の強い願いと、多くの人の協力により、本堂及び客殿が再建されました。
以降、庫裏、寺務所が整備され、開創550年を記念し、平成26(2014)年に山上に鎮守堂などが建立されました。
さらに、歴代住職墓所の改修、参道の改修などが進められ、今日に至っています。
真如寺 寺域へ上る車道の左脇には、寺院創建当時からの参道が続いている。
訪問時、地元の方の話では、当時の殿様(武田氏)が参られた道なのだという。
幕末期の戊辰戦争時、江戸開城を良しとしない旧幕府陸軍撒兵隊が脱走、江戸市中より海路木更津に上陸の後、当寺に本営を移した。
名付けて【徳川義軍府】という。
新政府房総鎮撫軍との戦闘(市川船橋五井姉崎)にわずか一ヶ月足らずで敗退し、当寺を去る。
そしてその後行軍してきた新政府軍により放火され、寺院は灰塵に帰したのだった。
房総叢書に記載されている文書【雨城の夢】によると、撒兵隊頭にして徳川義軍府総督である福田八郎右衛門道直が、船橋五井の戦いの敗北や、久留里城よりの来兵の報を受けて、真如寺本営の挟撃を恐れて撤退を決断した折、寺院の池に大砲弾薬を沈めたことが記されている。
池の所在は不明だが、寺域の発掘調査を行えば、何らかの遺物が現れるかもしれない。
現在の伽藍は、当時の位置とは違っているのだという。
残念ながらご住職不在でしたので御朱印がいただくことができませんでしたが、近くに宿泊するので預かっていただき次の日にまた伺いました。
奥様に色々お話を聞かせていただき歴史の勉強になりました。
お寺の駐車場近くにあります。
綺麗なお寺です。
とても紅葉が綺麗でした。
名前 |
曹洞宗 天寧山 真如寺 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0438-53-3116 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.2 |
武田家の菩提寺だそうです。
自然の中にあり、季節によって違う顔を見せてくれます。
でも一番のお勧めは秋。