神功皇后ゆかりの伝承が残る八幡さま。
祭神神功皇后・応神天皇 伊弉諾尊・玉依姫命由来(意訳)旅石八幡宮縁起や筑前風土記本記太宰管内志等の文献を見ると、神功皇后が蚊田(現宇美町)の里へ行く途中にここに立ち寄った。
すると急に産気づいたので石に腰かけた時に「あなわびし(とてもつらい)」と言った。
それから、この地をよぶときに「わびし」を「たべし」というようになった。
後世の人は、たべしを旅石と改め、ここに当社を建てて祭った。
旅石八幡宮縁起竝の社説に伝えられるには、1336年と1467年(に焼失)、1573年には、岳城の山頂にある髙鳥居城の城主杉弾正忠重が戦死とともに落城した時に、再度の兵火にあい、社殿宝蔵品の大部分は焼失した。
そのために創立されたいきさつ等については詳細は明らかでない。
1760年11月に神社を再建した。
その後、数回の補修工事は施し、寄進物も灯篭、鳥居、絵馬、こま犬等35件に及ぶ奉納がある。
境内由緒書より。
神功皇后が出産の為に、香椎宮を出発して宇美八幡宮へ向かう途中、ご休憩された場所に建つお宮です。
此処からは須惠川を挟んで若杉山を眺望できます。
氏子の皆さんがきちんと管理しておられる様で、掃除が行き届き、土手には水仙の花が咲いていました。
道路側からは上がれませんが、須惠川添いの道に入ると無料駐車場があり、そこから石段で上がって行けます。
社殿の裏側、表の広い道路を見下ろす辺りに、神功皇后が腰掛けたと伝わる、「わびしの石」が在ります。
出産を控えた身重の体で此処に腰掛けて、「あな、侘し」と呟かれたことから、わびし→たびし→たびいしと変化して地名となったと伝わっています。
想像ですが、当時おそらく皇后は15~17歳くらいだったのではないでしょうか。
愛する夫、仲哀天皇を亡くし、熊襲を討伐して身重の体で三韓征伐。
気丈な女帝という印象がありますが、初めての出産は不安で心細かったことでしょう。
社務所は無いので御朱印はありませんが、此処へ来て弥生時代へ思いを馳せると、同じ陽の光が降り注いでいると感じられるお宮でした。
神功皇后が出産の為に、香椎宮を出発して宇美八幡宮へ向かう途中、ご休憩された場所に建つお宮です。
此処からは須惠川を挟んで若杉山を眺望できます。
氏子の皆さんがきちんと管理しておられる様で、掃除が行き届き、土手には水仙の花が咲いていました。
道路側からは上がれませんが、須惠川添いの道に入ると無料駐車場があり、そこから石段で上がって行けます。
社殿の裏側、表の広い道路を見下ろす辺りに、神功皇后が腰掛けたと伝わる、「わびしの石」が在ります。
出産を控えた身重の体で此処に腰掛けて、「あな、侘し」と呟かれたことから、"わびし"→"たびし"→"たびいし"と変化して地名となったと伝わっています。
想像ですが、当時おそらく皇后は15~17歳くらいだったのではないでしょうか。
愛する夫、仲哀天皇を亡くし、熊襲を討伐して身重の体で三韓征伐。
気丈な女帝という印象がありますが、初めての出産は不安で心細かったことでしょう。
社務所は無いので御朱印はありませんが、此処へ来て弥生時代へ思いを馳せると、同じ陽の光が降り注いでいると感じられるお宮でした。
名前 |
旅石八幡宮 |
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ジャンル |
/ |
住所 |
|
評価 |
3.7 |
魚釣りに行くと言うのでついてきました❗なまず〰️😰