茨城県指定遺跡で幕末の水戸徳川家の当主斉昭公が大砲...
まず、現在の反射炉は昭和12年に復元されたものです。
水戸藩第9代藩主の徳川斉昭公が海防の要を唱えて江戸幕府から多額の資金を借り受けて建造することとなった。
藩には反射炉(大型の金属溶解炉)の知識を持つ人材がいなかったため、斉彬の重臣である藤田東湖と交友のあった薩摩藩の竹下清右衛門、三春藩の熊田嘉門、盛岡藩の大島高任などの協力を得て建設した。
1855年に第一反射炉、1857年に第二反射炉が完成し、この反射炉で造られた大砲は約20門。
1864年に元治甲子の乱で天狗党に破壊されてしまった。
天狗党の首領格は藤田東湖の四男・藤田小四郎。
父・藤田東湖が建設に尽力した反射炉を息子が破壊する結果となってしまった。
幕末に造られた鉄製の(西洋式)大砲を製造するのに必要な炉の跡です。
幕末の天狗党の乱で破壊され、今は復元された反射炉が建っています。
天狗党は余計な事しかしないなぁ。
復元ですが立派な炉で、下から眺めると圧巻です。
入口の門は江戸の水戸藩邸の門を移築したもので、堂々としており貫禄があります。
天狗党の慰霊建物が倒壊間近で取壊され、粗末な扱いをされてる。
建物を建てるお金も無いのだろう。
天狗党が忘れ去られていて、天狗党の功績も現代人には伝わっていないのでしょうね。
明治維新にて、天下の先駆け水戸を牽引した天狗党を、忘れてしまっていいのかな?桜田烈士や天狗党は、明治維新の先駆けで、その後に長州が立ち上がって行って、倒幕・維新を完成させたんですよね。
明治維新で水戸烈士の功績は、なぜ高く評価されず、水戸から政府高官は排出されなかったのかな?倒幕維新で長州と水戸は高く評価されるべきなのでは。
(水戸の評価が低い)肥前(佐賀)の奴らは何もしてないだろうし、薩摩や土佐は後から調子良く、乗っかってきただけです。
肥前が、出しゃばって出てきたのが、面白くない。
美しいツインタワー状の煙突ではあるけれど、他に見るものがないので1回行けば十分かな。
斉昭公が大砲鋳造の為に建築した反射炉(復元)で、近くに煉瓦焼成窯の復元模型もあります。
反射炉というと世界遺産に登録された韮山反射炉が有名ですが、こちらもなかなかのものですね。
(^○^)
3月3日の投稿です 初めて那珂湊反射炉跡に行き 写真を撮りました 情報では 知っていたのですが 直に見ると 大変立派なものでした となりの 門 も大変立派でした 今の時期 椿が大変綺麗でしたそして さくらも 少し咲いていました。
復元された反射炉跡です。
耐熱煉瓦の窯も復元させてました。
入口の山上門は移設されたそうですが、教科書にも出てくるレベルの幕末の志士達もここを通ったそうです。
何気にめちゃくちゃ貴重な建築物だったので驚きでした🧐
幕末、日本沿岸に船影を見せるようになった外国船に対抗できる西洋式大砲を鋳造するため、水戸藩第9代藩主徳川斉昭により築造されました。
斉昭公は海防意識が特に強く、武装強化による国防の必要性を強調していました。
ここで造られた大砲は各地の台場へ据え付けられ、幕府(お台場)へも献上されたとの事。
反射炉と登り窯が復元されており、幕末の時代に触れる事が出来るかも…?
◆令和3年10月初訪問平成16年竣工のレプリカですが、雰囲気は味わえます。
無料駐車場5、6台分あり。
所要時間10分という感じですかね。
2021年7月12日(月)に那珂湊の街歩きで立ち寄った。
緑豊かな公園の最も高台にほぼ原型通りに復元され、那珂湊の市街地のどこからでもその先端を見てとれる、旧那珂湊市民の象徴のような存在と感じた。
案内看板には以下のように記されている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・茨城県指定史跡那珂湊反射炉跡 Nakaminato Cannon Foundry幕末、那珂湊沖にも異国船が出没するようになり、水戸藩第9代藩主徳川斉昭が、 海防の要を唱えて領内各地に砲台を築くため、 大砲鋳造を目的として当吾妻台に建設したのが反射炉 (大型の金属溶解炉)である。
建設にあたっては、薩摩藩士竹下矩方、 三春藩士熊田宗弘、 南部藩士大島高任らの協力を得て、那珂湊の大工飛田与七や瓦職人福井仙吉が尽力した。
安政2年(1855年) に1号炉 (西)、 同4年に2号(東炉) が完成した。 高さ約15m、 使用された耐火煉瓦は約4万枚といわれている。元治元年(1864年) の元治甲子の乱で破壊され、 昭和12年に現在の模型が、ほぼ原型どおりに復元された。指定日 平成16年11月25日設置者 ひたちなか市教育委員会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・さらに茨城県教育委員会のホームページには以下のように記されている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・水戸藩の反射炉は、鉄製の大砲鋳造を目的として、安政年間に2基建造されました。
反射炉とは、大型の金属溶解炉のことです。
当時、全国に公営・民営あわせ十数箇所建造されたといわれています。
しかし、元治元年(1864)の藩内抗争(元治甲子の乱又は天狗党の乱という)の際、破壊されました。
やがて昭和8年(1933)頃から復元の動きが起こり、昭和12年(1937)12月、吾妻台の跡地にほぼ原形どおりに復元されました。
水戸藩は、徳川斉昭(1800~60)が嘉永年間に至って藩政への関与を許されるようになると、兵器の充実、とりわけ従来の銅製に変えて鉄製大砲鋳造の必要性を痛感するようになり、南部藩士の大島高任(総左衛門)らを反射炉建設の技術者として採用しました。
建設地としては吾妻台が選ばれました。
地盤の強固なこと、水戸城下3里の近郊で経済的にも廻船業で賑わう藩内随一の繁栄地であること、原料の鉄と燃料の石炭の調達運搬に便利であること、錐入れ水車場の建造にも便宜を有することなどの条件を満たす場所と判断されたためでしょう。
安政元年(1854)8月、起工式が行われました。
大工棟梁となった飛田与七(宮大工)の指揮のもと、入念な基礎工事を施すとともに、耐火煉瓦の原料となる粘土を得るため、那須郡小砂村(栃木県那珂郡那珂川町)の土がもっとも適していることを見究め、これに磐城産の燧石(ひうちいし)の粉末を一定の割合で混ぜ合わせることで烈火に耐える煉瓦の焼成に成功しました。
大島らは、当初10基の炉の建造を計画したといわれますが、当面は2基の完成を目指すこととし、翌安政2年(1855)1月から建造に着手し、11月に1号炉(西炉)が完成しました。
同3年(1856)鋳込みをしてモルチール砲(臼砲)を1号砲から4号砲まで造っています。
完成した大砲は約束により幕府へ送られました。
もっとも、1基では一度に溶解できる鉄の量はおよそ400貫であるから、2炉以上なければ大型の大砲鋳造はできません。
そこで、2号炉(東炉)の建造に着手し、1号炉と同型ながら火廻りに改良を加え、同4年(1857)12月に完成させました。
しかし、先のモルチール砲は、良質の鉄が得られず強度に問題を残しました。
そこで、大島は、故郷南部の釜石(岩手県釜石市)に出張し、かの地に洋式高炉を建設、良質の「柔鉄」(鉄鉱石から精錬した銑鉄)供給に見通しをつけて同5年(1858)年1月、那珂湊へ帰り、鋳造の本格的操業を開始しました。
すなわち2月からは2基の反射炉でモルチール砲3門、カノン砲1門を鋳造、さらに4月からは釜石の「柔鉄」2700貫が那珂湊に到着し、これにより3寸径カノン砲3門を鋳造できました。
こうして鋳造作業は、約4年を費やしてようやく明るい展望が開けましたが、前藩主斉昭が再度謹慎の命を受けたとの報が届き、以後操業は事実上中止のやむなきに至りました。
これが再開できたのは、万延元年(1860)12月頃とみられ、元治元年(1864)2月までカノン砲数門の鋳込みが行われたものの、同年3月に起こった元治甲子の乱の影響は那珂湊にも及び、10月にはここで激戦が展開されました。
このため反射炉も水車場もその戦火のなかで焼失崩壊しました。
那珂湊反射炉の完成は、前述のように安政2年(1855)ですから、年代的には佐賀藩、薩摩藩、幕府の伊豆韮山に次いで全国第4位ということになります。
しかし、大島によるわが国初の洋式高炉の建設は、水戸藩の鋳造事業に直結すること、苦心のすえ高度な耐火煉瓦の開発に成功したことは、わが国近代製鉄史上およびセラミックス工業史上に重要な意義をもつものです。
また、反射炉が建造された場所に、残されていた当時の煉瓦の一部を取り入れながら復元模型を建て、その敷地を保存してきた先人の功績も忘れてはなりません。
これらの点において、那珂湊反射炉は、本県の史跡の一つとして、その存在意義を十分に主張しうるものです。
那珂湊駅に近いのですが車で訪れたため駐車場所が分からず難儀しました。
駐車場から進むと山門が見えます。
初見だとお寺のように見えますが寺院ではありません。
門をくぐると蓮の花が咲く池が見えます。
とても優雅でした。
階段を登りきると2つの塔が見えます。
これが江戸時代末期に活躍した反射炉です。
鉄砲や大砲の弾などをここで精錬したのですね。
当時の面影が感じられGoodでした。
すぐ近くには煉瓦を焼く窯の復元模型もあります。
その異様な形態はSF映画に登場するモンスターのようで今にも動き出しそうな躍動感が感じられました。
料金も無料なので気兼ねなく訪れることができるのもありがたいです。
反射炉を照らす夕日、丘の上から望む沈む夕日が綺麗です。
幕末の緊張を肌で感じることができる遺跡です。
水戸藩と薩摩藩の技術者が苦労して作り上げた反射炉です。
1857年(安政4年)に徳川斉昭により国防のために建てられ大砲を鋳造していましたが、1864年(元治元年)元治甲子の乱で破壊されてしまいました。
現在の反射炉はレプリカで1937年(昭和12年)に復元されたものです。
入口には1937年(昭和12年)に東京の小石川から移築された山上門が建てられています。
ほとんど人がいないのでコロナ禍でも三密避けて観光できますよ!ちょっとした時間つぶしにはいいと思います。
キレイに整備されています。
反射炉や大砲の作り方などの説明がもう少しあると良いと思います。
反射炉は、何度か見たことがありました。
那珂湊にもあるとは知りませんでした!
尊王攘夷派の天狗党員とその家族までをも悉く処断したため、水戸藩は極度の人材難に陥りました。
風に秋を感じました。
煉瓦を作っていたのか。
穏やかな時間の流れを感じました。
那珂湊駅から徒歩10分程度で行けます静かなところで良いです。
たまたま気がついたので訪れましたが、小高い山の上にあり見晴らしと雰囲気が清々しい感じです。
恐らく・・・実物とはかなり異なる気もしますが、しっかりと残すのは重要ですね。
反射炉、煉瓦焼成窯が復元され、山上門は江戸から移築したもの。
江戸時代に大砲製造のために作られた。
ここには桜の木があるので、春はきれいです。
那珂湊駅から歩いても近い。
車でグーグル経路案内に従ったら、駐車場をスルーしてとんでもなく細い裏手の道に連れて行かれたので、駐車場が見えたら素直に車を停める事をお勧めします。
立地としては、おさかな市場から車で10分未満といった所です。
反射炉は水戸藩時代に造られた物を昭和初期に復元したようです。
その為か、真っ白で妙に綺麗で時代的な雰囲気はあまり感じられません。
興味がある方以外には特に見所と言うほどでもないと思うので、何かのついでに行くには良いかなと思います。
反射炉後もすごいですが、わたし的にはその下にある門が小石川邸の門だと言うことにすごい驚きました\(◎o◎)/
こういう歴史的な場所があまり知られていないのが残念。
茨城県人はどういう訳か宣伝が下手ですよね。
星は5つとさせて頂きます。
茨城県指定史跡 大砲鋳造所。
一見の価値有りです。
正面の穴→ 出湯口(溶けた鉄の取出し口)側面の穴→ (小)焚口(燃料投下) 側面の穴→ (大)鋳口(鉄を入れる場所)裏側の穴→ 灰穴そばに反射炉の煉瓦を作るための窯(復元模型)もあります。
あづまが丘公園の駐車場利用可能です。
世界遺産に匹敵する所です。
徳川斉昭が阿部正弘による謹慎処分がとけると、藩政関与が許される。
ここ那珂湊で大砲鋳造に乗り出す。
技術者として世界遺産「橋野高炉」にも係わった大島高任等が招聘された。
橋野高炉の銑鐵でカノン砲の製造に目鼻がつくが、斉昭の再謹慎や元治甲子の乱などあり、1864年に焼失。今の反射炉は時代を先取りし過ぎ復元されたもの。
復元せずに、土の中から当時の土台を掘り出したら、世界遺産は間違いなかった。
しかし、大戦前に歴史的遺産を再建した当時の篤志家に敬意を払いたい。
今、世界遺産のお墨付きを頂くより偉大な先人を誇りたいものです。
無料の駐車場完備でゆっくり見学が出来ます施設の説明板も設置されてますが、もう少し具体的な記述が欲しいですねそもそも「反射炉」とは何かの説明書きが無いような気がしました。
名前 |
那珂湊反射炉跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
029-301-5449 |
住所 |
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評価 |
3.7 |
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茨城県指定遺跡で幕末の水戸徳川家の当主斉昭公が大砲建造の為に薩摩藩や他藩の藩士の協力を得て作らせた。
現物は水戸藩内の内輪もめの際に失われたので、当時の製法を忠実に再現したものが作られた。
高台にあるので、見晴らしが良い。