名前 |
五角堂 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.4 |
【当建物】(ゴカクドウ)は、昨今「つくばのダ・ヴィンチ」とも言われる飯塚伊賀七(イイヅカイガシチ)が設計した五角形の形状の建物である。
通常は偶数の四角形であり、奇数の形の建築物は難しいと言われている。
一辺4.6mの正五角形の建物で、中心の高さ6mであるが、いつ頃作られたかについては記録がなく不明。
しかし、和時計を作る以前に作られたことは明らかであるとのこと。
【和時計】については、部品の各所に記されている製作年号により推定すると、文化14(1817)年頃から計画され、数年を要して文政5(1822)年頃完成したようです。
伊賀七が、55~61歳にかけての頃です。
原動力は、コハゼハジキコハゼバネのついた糸巻車が取り付くようになり、それに重錘をつりさげました。
動力としてその錘は砂か、石であったろうと推測されます。
【所在地】は、茨城県つくば市谷田部1945(〒305-0861)である。
【飯塚伊賀七】(イイヅカイガシチ、宝暦12(1762)年3月29日(西暦4月23日)~天保7(1836)年11月17日(西暦12月24日))は、江戸時代後期の発明家。
谷田部藩領の常陸国筑波郡新町村(現:茨城県つくば市谷田部)に生まれ、生涯を谷田部で過ごした。
「谷田部に過ぎたるもの三つあり、不動並木に広瀬周度、飯塚伊賀七。
」と呼ばれ、谷田部の象徴的な存在だった。
名主(庄屋)を務めるかたわら、建築・和算・蘭学などを学び、からくりや和時計を数多く製作したほか、飛行実験、地図製作、多宝塔や五角堂の設計など多方面で活躍し、村人を驚かせた。
そのため、からくり伊賀又はからくり伊賀七の異名を持つ。
平成時代には「つくばのダ・ヴィンチ」という呼び名も登場している。
【広瀬周度】(ヒロセシュウタク)は、父周伯(シュウハク)とともに藩医で書画に長けて蘭学を学んだ人である。
これらの人材輩出の基礎は、藩校「弘道館(コウドウカン、文館・武館)」にあると思われるが、これは熊本藩の藩校「時習館(ジシュウカン)」が他藩に先んじて設立されたので、この影響があったのではないかと思う。
【不動並木】(フドウナミキ)は、江戸幕府が一里塚や宿駅の整備により五街道の整備を推し進めたが、谷田部藩が参勤交代の道を松で整備したものである。
現在はマツクイムシの被害に遭い全て伐採された。
【接道】は、南北からは「県道つくば野田(3号)線」である。
東西からは国道354号線旧道(旧県道土浦野田線)で前述の県道との十字路交差点を南下すると約30メートルの右手に見える。
上記の十字路の北東の角に「道路元標」が立っている。
【駐車場】は、個人宅の一角にあるので駐車場は付置されていない。
当建物の北側に「明超寺」が立地し、県道から入ったところに駐車場が数台分確保されている。
同寺への参拝を予定するならば念頭に置くのも方便である。
なお、飯塚家の菩提寺は、ここでなく、少し離れた「道林寺」(谷田部藩主細川家の菩提寺)である。
【トイレ】は、前述のとおり当建物は私有地に立地するので、未整備である。
したがって、来るまでにコンビニ等で用を済ませてくるのがベストである。