お吉が淵の傍にはお吉地蔵があります。
あの唐人お吉さん❤️の入水した場所だったのですね。
📝👀そうだったんですね👍
稲梓駅から蓮台寺駅まで散歩する途中、立ち寄りました。
説明板を読むまでお吉のことはあまり知りませんでした。
山茶花が綺麗に咲いておりました。
合掌。
川の景色が良いですよ。
歴史好きなら楽しめるかな。
静かにお吉さんにお参りさせていただきました。
帰りにお天気が突然変異ひょうが降ってきました。
江戸時代末期、舟大工の鶴松という恋人がありながら、鶴松の出世と国の利益のためアメリカ総領事・タウンゼント・ハリスの下に17歳の若さで仕えた【お吉】ですが、時代の波に翻弄され、明治24年3月27日の豪雨の夜、稲生沢川に身を投げ51歳の生涯を遂げました。
ハリスの下に仕えていたお吉は、お国の為と親身にハリスに仕えていましたが、心ない子供達から【唐人お吉】と蔑まれ、石を投げつけられる事も有りました。
お吉の死後、お吉の生涯を哀れに思った、旧五千円札の肖像画になった【新渡戸稲造】氏が、お吉が身を投げたこの淵に慰霊塔を建立し供養しました。
▼幕末・初のアメリカ合衆国駐日領事・タウンゼント・ハリスの世話係として仕えた女性として有名です。
▼恥ずかしながら、あまりお吉のことを調べていない時には「唐人お吉」ともいうので、てっきりハリスの日本における愛人なのかと思っていました。
▼しかし、ハリスは敬虔なクリスチャンであり、またお吉が世話係として下田の玉泉寺に来ていた時には、体調を崩して寝込んでいたようです。
体調不良のハリスがお吉に所望したのは、その頃の日本人が飲まない「牛乳」でした。
▼むしろ、ハリスの通訳兼書記官として随行してきたヘンリー・ヒュースケンの方が下田の当時混浴だった公衆浴場でお吉さんの入浴を見て興奮してしまい、後日手籠めにしたという説もあるようです。
▼ハリスたちが江戸に日米修好通商条約を締結させに行った時にお吉も同行し、江戸で姿をくらまし、一時期は、その条約で開港した横浜に住んでいたようです。
▼ところが下田に戻ってきます。
そこで酒乱のお吉は自暴自棄的な生き方をします。
決して唐人(外国人)に身を任せた日本人女性だからということで周囲からいじめられた等の話しではないのです。
▼お吉がこの稲生沢川に転落して水死したのは48の時。
晩年は、酒乱だった不養生が集ったのか半身不随、治療費も払えないみじめなもので、近隣の知人にすがってなんとか生きていました。
▼大きな嵐の日に川へ転落して死亡したようなのですが、どこで転落したかは分かっていません。
ただ前日にこの辺りを、杖をついて歩くお吉さんを目撃した人がいたことから、この辺りを「お吉が淵」と呼んでお吉の霊を慰めるための社を建てたということです。
お吉が淵の傍にはお吉地蔵があります。
日本の教育者・思想家であった新渡戸稲造は、唐人お吉の大の同情者の 一人であり、このお地蔵様は、新渡戸稲造の篤志によって 昭和8年8月に建立されたものだそうです。
とても歩きやすい。
日米修好通商条約締結の為、玉泉寺に滞在していたアメリカ総領事タウンゼント・ハリスの元へ看護人として3日間通っただけなのに人々の蔑みと嘲笑の的となってしまったお吉さん。
そのお吉が人生最後の場所として選んだのがこの稲生沢川沿いの淵でした。
明治23年(1890年)3月27日の豪雨の夜で、そのご遺体は身内も菩提寺も引き取らずに野ざらしのままだったそうです。
現代の集団イジメと構造が変わらず、そこまで一人の女性を追い詰めるとはあまりにもひどすぎると思います。
宝福寺の住職さんだけがご遺体を引き取って手厚く埋葬をしました。
このお吉が淵には彼女に同情した新渡戸稲造が昭和8年に建立したお吉地蔵が立っています。
小さな祠もありました。
毎年3月27日の命日に芸者さんも集まり、お吉祭りが開催されています。
鯉が居ますよ~散歩には良いかも知れません。
車を止める場所がなく、路肩に寄せるしかないのですが、お吉が実際に亡くなった場所だと思うと、胸に迫ってくるものがありました。
小さな祠と、河川敷の綺麗な休憩できる公園がありました。
唐人お吉さんの悲しい人生を考えさせられる。
車を停める所に迷う。
お吉を祀ってあるお堂があります。
お墓の方は、なぜかお金を取られるので、お吉さんをお参りするときは、ここへ来ます。
川沿いにお堂があり、小さな池には鯉のいる、静寂な場所。
朝夕は、地元の人の散歩コースになっているようです。
名前 |
お吉が淵 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.8 |
足元に注意しながら歩きましょう。
お吉さん、下田をもっともっと盛り上げてください! 人口減少が止まらないようですよ。