原の湿地帯の向こうに、駿河湾が望めます。
昔来たときより草が刈られて歩きやすくなってました。
城の形が残っていて裏の空堀が小田原城のと同じくらい深く見ごたえがあります。
しかし、ナビがないと入り口は掲示されてないのでわかりにくいですね。
まだ北条早雲が伊勢新九郎守盛時と名のっていた頃、今川氏親より与えられた興国寺城です。
早雲の北条姓は伊豆の北条とは違うものの、伊勢氏も同じ桓武平氏の流れを汲んでいると言われてます。
県道22号線脇の根古屋に有ります。
大空堀、曲輪などその規模は見ることが出来ます。
城としては小さかったんだろうと思いますが、天守があったところから見る景色は最高です🎵
令和4年 12月10日阿野全成 源氏ゆかりの地を訪ねて興国寺城は、根古屋と青野の境にある、篠山という愛鷹山の尾根を利用して築かれている。
この城は、戦国時代に関東一円を支配した北条氏の祖である伊勢新九郎盛時(北条早雲)の旗揚げの城として名高い城である。
駐車場があります。
素敵な遺構が見られます。
まだ、工事しているところもあり、全体がみられるようになればいいな、と思いました。
決して諏訪原城跡には、負けていないものになると思います。
伊勢新九郎盛時(伊勢宗瑞・北条早雲)が今川家の客将として活動していた時期に甥の今川竜王丸(氏親)から与えられた所領の一つとか。
夏の週末早朝から続日本100名城スタンプゲットしに行ってきました。
本丸天守台辺りから二の丸、沼津方面の眺めは中々良いですね。
本丸の裏手の深い空堀もgood。
■見どころ:本丸、二の丸、三の丸、堀、土塁、石垣■バイク置き場:二の丸付近の空き地■スタンプ置き場:穂見神社境内。
天守台、天守石垣、深い堀などが残り、天守台からの眺めは素晴らしいです😊✨♬北条早雲公の城🏯続百名城🏯
北条早雲が初期に本拠とした城。
天守台の石垣や礎石が残り、その背後にある巨大な空堀が圧巻です(^^)
続日本100名城。
巨大な土塁と空堀、石垣が残っている。
周囲の水路は、水堀の跡だろう。
国指定史跡として、整備されつつある。
全体的に整備されていて見学しやすいです、北側の大堀切を登り降りする際は足元に十分注意されて下さい。
城址全体を把握しやすく、遠方に駿河湾が見え、早雲と同じ景観を見ているんだと妄想。
早雲の碑と並んで家康側近・岡崎(三河)三奉行/初代興国寺藩主天野康景の碑も哀愁があります、質実の武将。
2019年8月に来訪。
まだまだ整備されていない感じでした。
駐車場も舗装されていなかったし。
城の歴史としては素晴らしいのでしょうが、他の続100名城に比べてもこれからなんでしょうね。
もしかしたら今行くとかなり整備されているかもしれないので緊急事態宣言明けたらまた行ってみたいですね。
2018/3/11城域は結構高いところにあり、主郭から見下ろすとなかなかの高低差を感じられる。
主郭の奥には巨大な土塁が聳えており、その向こうにはこれまた馬鹿でかい大堀切が抉られている。
おそらくこ三方は低湿地に守られ、唯一地続きとなる北側を守るための設備であろう。
宗瑞の最初の居城という伝承は最近は否定されつつあるが、宗瑞居城ということを省いても、文句なしに素晴らしい城郭遺構であると思う。
大堀切の向こう側(郭跡?)が整備されていたが、そろそろきれいになっているだろうか。
2021年5月18日(火)訪問県道22号線(根方街道)東根古屋バス停の所から北に入ります。
沼津市に城址があるとは知らなかったです。
下調べしないでたいした所じゃないと思い行きました。
現地に着いて広さに驚きました。
大空堀の通路を歩いたらかなり疲れました。
一つの山です。
伝天守台からの眺めは良く伊豆半島迄見渡せます。
近くのお茶屋さんの野崎園さんで、御城印(¥300)買いました。
北條五代の原点、興国寺城跡。
伊勢新九郎守時(北条早雲公)が東海道の要所、根古屋の地で旗揚げをします。
ここより伊豆攻めを行い、韮山の二代堀越公方(茶々丸)を滅ばしたときから東国の戦国時代が始まりす。
でも今は新緑に鶯がさえずり、とても長閑な場所です。
北条早雲が今川氏親の家督争いに味方して、その褒美にもらった城、早雲はここから戦国大名にのし上がって行きます。
いわゆる出世城かな?高い土類が良く残されていて、上に登って景色を眺める事が出来ます。
戦国初期の山城。
北条早雲で有名。
城巡りの初心者向き。
沼津市の北に位置し、沼津市を南に一望できる。
交通アクセスは、特にこれといった案内が無い為分かりにくい。
googlemapのナビでなんとか現地に到着。
北条早雲の旗揚げの城で、大土塁と天守台背後に造られた幅20メートル以上もある大空堀が、圧巻、天守台からは原の市街と駿河湾の景色が一望できます。
綺麗に整備されていて、見学しやすいです。
途中階段が整備されていますが、結構段差が有り、雨の日などは注意が必要だと思います。
小一時間で、全体を見て回れるので散歩がてらにちょうど良いかと思います。
続100名城のひとつ。
北条早雲が城主だったとのこと。
小さいながらコンパクトにまとまっています。
神社の横にスタンプあり。
24時間押せそうでした。
外にある場所ですが、地元の方々がきれいに掃除されて大事にされてる様子が感じとれます。
2020年12月5日愛鷹PAスマートICを経由して訪ねました。
中心部に穂見神社がありその隣に城址の説明板と石の記念碑が立っています。
大きな土塁と天守台の石垣が残っています。
曲輪跡も復元されています。
三の丸は駐車場になっています。
北側には深い堀が残っています。
思ったよりずっと高い土塁であり深い堀です。
曲輪も広い。
伊勢新九郎の時代はもっと小規模だったかもしれない。
少なくとも天守台は無かったのではないでしょうか?説明板のところに立派なパンフレットがありとても良く説明されていました。
最近、静岡県内の城跡整備が進んでいるようです。
駐車場から歩いてすぐです。
神社の右隣の看板下にスタンプとパンフレットがあります。
興国寺城(こうこくじじょう、根古屋城とも)は、静岡県沼津市根古屋(駿河国駿東郡阿野荘)にあった日本の城(平山城)。
城跡は国の史跡に指定されている。
興国寺城敷地内には穂見神社が存在する。
興国寺城は北側から北曲輪、伝天守台、本丸、二の丸、三の丸、そして東側の清水曲輪によって構成される連郭式の城である。
江戸時代初期に描かれたと推定される、興国寺城の最終期のものであると考えられる絵図面が残されているが、絵図面の記載はおおむね現存する興国寺城に一致するものの、北曲輪、清水曲輪については記載されておらず、江戸時代初頭の段階では北曲輪、清水曲輪は使用されなくなっていたものと考えられている。
発掘調査の結果、興国寺城で最も古い段階は一番南側の根方街道沿いの三の丸を中心として、二の丸から本丸南端の虎口付近でまでであったと考えられている。
出土した遺物から三の丸は16世紀半ば頃までに築城されていたと考えられ、当時の城は沼地に突き出るような地形であったと考えられている。
本丸の排水路の石組みからは宝篋印塔を転用しているのが検出されていて、後述の今川義元が天文18年(1549年)、興国寺に移転を命じ、その跡地に興国寺城を築城したという記録との関係性が注目される。
その後、興国寺城は北側に城域を拡大したものと考えられる。
16世紀後半台には城の南限は二の丸、北限は北曲輪となったものと見られている。
また東側の清水曲輪も16世紀後半台から興国寺城の城域となったと考えられている。
この時期の築城の主体は、丸馬出し、三日月堀の存在から武田氏によるものであることが想定されている。
16世紀後半台、北条氏との攻防が激化する中で、防御性を高めるために山側にシフトした形で改築されたものと考えられている。
続く徳川氏の時代、三の丸から北曲輪、そして東側の清水曲輪と、興国寺城の城域が最大規模となったと考えられている。
武田氏の滅亡後、駿河の徳川氏支配が確立すると、現在の静岡県域では拠点となる城郭に機能を集中する動きが確認されており、興国寺城も多くの軍勢が駐屯可能な徳川氏の拠点のひとつとして改修されたと考えられている。
また大兵力を動員した小田原攻めが興国寺城の拡張、改築に影響した可能性が指摘されている。
その後、豊臣家の支配時代になると、現在の興国寺城の遺構と同じく、伝天守台を北限、三の丸が南限という形となったと見られている。
この時期には北曲輪、清水曲輪は城外となった。
豊臣家の時代は関東に移封した徳川家康に対する押さえという意味があり、興国寺城の存在意義があったものの、関ヶ原の戦い後になると興国寺城の存在意義は小さくなり、東海道や根方街道から見える場所に石垣や天守を設けるなど、見せる城としての様相が濃くなっていた。
大空濠もこの時期の遺構であると考えられている。
天野康景の出奔後、慶長12年(1607年)に興国寺城は廃城となるが、これは興国寺城の重要性が低下していたことによると考えられている。
北条早雲のお城。
大空堀が見どころ。
コロナ影響で訪問される方が少ない事もあってか、雑草がかなり茂っていた。
お寺の境内の延長戦かと思ってなめていましたが、立派なお城跡でした。
駐車場もあって、山登りも必要がなく、とても訪れやすいお城跡てした。
城下町が整っていそうな街道に開けたお城です。
北条早雲の旗揚げの地。
思いの外大規模で、天守台の裏の堀の深さには狂気を感じる。
愛鷹山の稜線の南端にあり、海も近く、狭い通路を塞ぐ関所のような城。
駿河の門番と言えるような立地だが、ここの門番はここから出ていって伊豆と相模を平定してしまった。
続日本100名城にも選ばれていて、スタンプが有ります。
大きな本丸,二の丸,三の丸が有り、天守台跡と大空堀が明確に残っています。
大掛かりな土木工事をして、規模が大きな城を築いていた事が分かります。
整備計画が有るみたいですが、現状でも十分整備されていて、城跡好きならかなり楽しめると思います。
▼興国寺城は、富士山裾野南側にある愛鷹山から駿河湾への南裾端にあります。
東海道の要であり、ここを押さえておけば東西に移動するすべての情報を網羅することができます。
▼また、愛鷹山山麓は気候も温和で農作物も良く育ち易い土地、つまり肥沃な土地なのです。
▼この城を駿河守護・今川氏のお家騒動を上手に収めた功績で手中にすることが出来た伊勢宗瑞(そうずい:俗にいう北条早雲のこと、以下早雲)。
▼この城をゲットできた時点で早雲は、東から西へ流れる情報も全てゲットできたことから、初めて関東への進出という夢を描いたのではないでしょうか。
▼というのは、この城は関東から京へ抜ける山麓と海が近い東海道の街道沿いにある訳です。
▼当時、鎌倉と京都間の情報、人、モノの流れは活発で、ここを抑えたということは鎌倉の関東管領上杉家の情報はもとより、足利公方、古河公方、ついでに伊豆の韮山に居た堀越公方等の情報も相当量、早雲の耳に入ったことと思います。
▼早雲は、これらの情報から堀越公方である足利茶々丸を滅ぼし、伊豆の根本の韮山城へ移るまで、ここ興国寺城を拠点とするのです。
▼その後、箱根山を越えた小田原城を確保することで、関東侵出の夢を叶えた早雲。
▼これがその後100年間、関東への勢力拡大を続けた北条五代の礎になったと考えると、まさにこの興国寺城は関東北条家100年の計の創造の地だったと言えるでしょう。
#japanlocalguides #マイナー史跡。
北条早雲旗上の城跡。
只今、整備中!完成が楽しみです。
イマしばらくの猶予を!春は、桜も綺麗です。
原の湿地帯の向こうに、駿河湾が望めます。
天然の要塞ですね。
山に接する北側は、10mの深い堀があります。
北条早雲は、ここから韮山の堀越公方を目指したみたいなので、自転車で行くと2時間位でした。
約18kmの移動をしてから、戦さをするのは、結構な体力だと実感しました。
国の史跡の城跡です。
整備中みたいで城があったとはわかりません。
原市街地の眺めは最高守備の城と言うか統治の城でしょうね河東の地は山岳が多く防衛には不向き。
室町幕府の官僚で駿河今川家の客将であった伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)が今川家の家督争いでの活躍によりこの興国寺城を与えられました。
現在の城郭は土塁や堀切はあり、案内説明板もありますが整備が足りていません。
入口には古びた整備計画の看板も。
アクセスは基本的に車ですが近くに根古屋バス停があり、JR原・吉原・沼津からのアクセスも可能です。
私はJR原駅より徒歩40分かけて歩きました。
名前 |
興国寺城跡 |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
055-935-5010 |
住所 |
|
営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト |
https://www.city.numazu.shizuoka.jp/shisei/profile/bunkazai/siro/kouk.htm |
評価 |
3.8 |
亡父が沼津出身であり、大学時代に読んだ司馬遼太郎の『箱根の坂』もあり、備中伊勢氏で足利義政申次衆であった北条早雲が姉か妹の縁で今川義忠に助力し、伊豆侵略で韮山城主、相模侵略で小田原城主、更に関東の雄となっていったその振り出しがこの興国寺城だと思うと胸熱。
今回、旅程の事情もあり、時代が逆になったが、小田原城跡→(伊豆山神社)→(來宮神社)→韮山城跡を経て当所興国寺城跡に至る。
原駅からバスにて白隠誕生地前交差点から興国寺城通りを北に真っ直ぐ、西郵便局前バス停から徒歩にて20分ほど。
当所に向かうと前方には壮大な愛鷹山が眼前に。
これから沼津市は興国寺城跡整備に取り掛かるらしいが、韮山城跡と小田原城跡を経てだと、この未整備の沼津の一地域から振り出しで立身出世していったかと思うと、さほど整備しなくてもいいのではとさえ。
未だ発掘半ばのようで、本丸北側の曲輪などには進入禁止もあり、見て廻れなかった。
帰りしな、すぐ近くにエスキムラさんという化粧品店で御城印を購入。
大変満足な一日となりました。