黒沢(くろさわ)、青柳(あおやなぎ)の三河岸(さん...
富士川舟運 蒲原河岸(船溜) / / .
江戸時代のはじめに開かれた富士川舟運(しゅううん)は、甲州(山梨県)の鰍沢(かじかざわ)、黒沢(くろさわ)、青柳(あおやなぎ)の三河岸(さんがし)から、岩淵(いわぶち)河岸までの18里(約7km)を貨客輸送した。
それから岩淵・蒲原(かんばら)間の陸送は岩淵の権利、蒲原・清水間の海上輸送(小廻(こまわし)は蒲原の権利、清水(しみず)は駿河湾外への輸送(廻船(かいせん)の権利を持ち、各地とつながっていた。
甲州の年貢米の廻米(かいまい)は、蒲原の御米台から清水の御米台へ運ばれ、その他の荷物は、清水の問屋名義の蒲原の船で江尻(えじり)や各地に送られた。
蒲原は東海道の宿駅(しゅくえき)の上に湊(みなと)を持っている交通の要地として栄えた。
江戸時代には、木材や筏(いかだ)は桝形から蒲原田地への用水路を通り筏置場まで運ばれていた。
甲州側は、その水路を利用して蒲原に直接乗り入れる事を強く要望していたが、岩淵側の反対で実現できなかった。
明治6年(1873年)、甲州側は、蒲原の平岡久兵衛、佐藤信次郎、塩坂長兵衛、山崎善治等と「蒲原水道建築方願」を山梨県に提出した。
費用1万1千余円で蒲原・中之郷地先の間(約4km)の水路と河岸(船溜)を造ろうとするもので、明治7年(1874年)3月、太政大臣三条実美の許可を得、新水道会社を設立し、工事が始まった。
水路は幅8間(約14m)、船溜は縦20間(約36m)×横80間(約144m)、船溜の西南に御米台、蒲原湊と続き、南に商荷物を入れる倉庫、北は本町の旅館街と連なる河岸としては最適の地である。
工事の完成は、明治8年(1875)1月頃で開通式には山梨県令等も出席し盛大を極めたという。
河岸ができると貨客が集まり賑わった。
明治9年(1876)に開業した富士川運輸会社蒲原出張所は、わずか4年で手狭になり、明治13年(1880)に静岡県令まで出席し盛大に改築落成式が行われたことや、汽船三保丸が蒲原に来ていると当時の新聞が報じている。
蒲原の繁栄に対し、岩淵河岸では陸送に従事していた馬方、人足のほとんど失業し運送業の人々は大打撃を受けた。
明治20年(1887)10月の新聞には、静岡・山梨の有志が蒲原へ山梨回漕店を設立、東京に出張所を置いて汽船福沢丸、大安丸で蒲原・東京間を運航、低運賃のため荷主の利益も大で、清水の問屋までも影響を受けていると書かれている。
この蒲原河岸のにぎわいも明治22年(1889)、国鉄東海道線の開通でいち早く岩淵駅が開業したため富士川村に移ってしまった。
岩淵側は富士運河会社を設立して岩淵から運河を掘り、駅裏に停船場を造って東海道線と舟運を結びつけた。
岩淵駅(現在の富士川駅)には貨客が集中し繁栄したが、蒲原に至る水路や船溜は使われなくなりさびれてしまった。
この蒲原河岸跡は、東海道の宿駅と富士川舟運・海運の接点として蒲原のにぎわった時代の記念碑である。
(富士川舟運 蒲原河岸(船溜)説明板より)
江戸時代のはじめに開かれた富士川舟運(しゅううん)は、甲州(山梨県)の鰍沢(かじかざわ)、黒沢(くろさわ)、青柳(あおやなぎ)の三河岸(さんがし)から、岩淵(いわぶち)河岸までの18里(約7km)を貨客輸送した。
それから岩淵・蒲原(かんばら)間の陸送は岩淵の権利、蒲原・清水間の海上輸送(小廻(こまわし)は蒲原の権利、清水(しみず)は駿河湾外への輸送(廻船(かいせん)の権利を持ち、各地とつながっていた。
甲州の年貢米の廻米(かいまい)は、蒲原の御米台から清水の御米台へ運ばれ、その他の荷物は、清水の問屋名義の蒲原の船で江尻(えじり)や各地に送られた。
蒲原は東海道の宿駅(しゅくえき)の上に湊(みなと)を持っている交通の要地として栄えた。
江戸時代には、木材や筏(いかだ)は桝形から蒲原田地への用水路を通り筏置場まで運ばれていた。
甲州側は、その水路を利用して蒲原に直接乗り入れる事を強く要望していたが、岩淵側の反対で実現できなかった。
明治6年(1873年)、甲州側は、蒲原の平岡久兵衛、佐藤信次郎、塩坂長兵衛、山崎善治等と「蒲原水道建築方願」を山梨県に提出した。
費用1万1千余円で蒲原・中之郷地先の間(約4km)の水路と河岸(船溜)を造ろうとするもので、明治7年(1874年)3月、太政大臣三条実美の許可を得、新水道会社を設立し、工事が始まった。
水路は幅8間(約14m)、船溜は縦20間(約36m)×横80間(約144m)、船溜の西南に御米台、蒲原湊と続き、南に商荷物を入れる倉庫、北は本町の旅館街と連なる河岸としては最適の地である。
工事の完成は、明治8年(1875)1月頃で開通式には山梨県令等も出席し盛大を極めたという。
河岸ができると貨客が集まり賑わった。
明治9年(1876)に開業した富士川運輸会社蒲原出張所は、わずか4年で手狭になり、明治13年(1880)に静岡県令まで出席し盛大に改築落成式が行われたことや、汽船三保丸が蒲原に来ていると当時の新聞が報じている。
蒲原の繁栄に対し、岩淵河岸では陸送に従事していた馬方、人足のほとんど失業し運送業の人々は大打撃を受けた。
明治20年(1887)10月の新聞には、静岡・山梨の有志が蒲原へ山梨回漕店を設立、東京に出張所を置いて汽船福沢丸、大安丸で蒲原・東京間を運航、低運賃のため荷主の利益も大で、清水の問屋までも影響を受けていると書かれている。
この蒲原河岸のにぎわいも明治22年(1889)、国鉄東海道線の開通でいち早く岩淵駅が開業したため富士川村に移ってしまった。
岩淵側は富士運河会社を設立して岩淵から運河を掘り、駅裏に停船場を造って東海道線と舟運を結びつけた。
岩淵駅(現在の富士川駅)には貨客が集中し繁栄したが、蒲原に至る水路や船溜は使われなくなりさびれてしまった。
この蒲原河岸跡は、東海道の宿駅と富士川舟運・海運の接点として蒲原のにぎわった時代の記念碑である。
(富士川舟運 蒲原河岸(船溜)説明板より)
名前 |
富士川舟運 蒲原河岸(船溜) |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト |
http://www.town.fujikawa.yamanashi.jp/kanko/meisho/fujikawa.html |
評価 |
4.4 |
ツーリング途中で立ち寄りました✨現在は説明板が残るのみで華やかな場所ではありませんが、栄えていた時を偲び周囲を歩くのは楽しかったです😁