石碑と簡単な案内板があるくらいで他に何もないのがあ...
滋賀県長浜市 姉川古戦場姉川の合戦1570年姉川付近一帯で行われた合戦です浅井長政軍8000 vs 織田信長軍23000?朝倉義景軍10000 vs 徳川家康軍5000~6000午前5時(6時)に始まり午後2時には織田、徳川方の勝利となりましたが戦死者が1100人とも2500人とも言われていて、川が真っ赤に染まったそうです。
この姉川で、両軍合わせて2
2022年9月10日行ってきました。
行き方Googleナビで姉川古戦場にセットすると行けます。
但し、近くに有る橋は老朽化の為通行止めです。
駐車場専用駐車場有りです。
歴史背景織田、徳川連合軍VS浅井、朝倉連合軍の戦いですかね。
⭐️姉川古戦場u003d「姉川の戦い/織田・徳川連合軍右翼の戦場」織田勢/兵20000(姉川の南着陣)vs浅井勢/兵6000(姉川の北着陣/野村地区)が激突した場所⚔️兵数少ない浅井勢が先鋒/磯野員昌はじめ織田勢に突撃奮闘、織田勢の陣を切り崩し織田本陣に肉薄窮地に❗️左翼で徳川勢が朝倉勢を追い詰め敗走させ、形勢逆転、織田勢も横山城包囲網から美濃三人衆が加わり浅井勢堪え切れず小谷城に敗走し決着😣⭐️ここに来たかったんです‼️古戦場に姉川が静かに流れ、東に伊吹山、周辺の田園風景、ここで1570年(元亀元年)に兵40000が激突したとは、織田信長「天下布武」への大きな一歩🐎
侵攻軍を迎え撃つならここだよね。
って場所に姉川の戦い古戦場はあった。
浅井軍結構奮戦したようだが衆寡敵せず結局大敗北、両軍合わせて2500名の死者。
地元の人たちにはいい迷惑だよね。
やっぱ戦争はあかんわ。
お前らプロならカタギに迷惑かけンナ。
虎御前山から歩いて来ました。
途中で道の駅に寄りましたが、2時間弱で着きました。
ぶっちゃけ石碑ぐらいしか無いですが、昔ここで戦があったんだなと、ロマンは感じられると思います。
姉川の合戦があったところ。
テレビの歴史番組で聞いたところ、大激戦だったようです。
浅井長政が織田信長を裏切らなければ、どうなっていたのかな…
石碑と簡単な案内板があるくらいで他に何もないのがあえて当時を思いはせるのにちょうど良い。
450年前の6月28日、ここ姉川を挟んで北側に浅井朝倉連合軍18,000人と南側に織田徳川連合軍29,000人が布陣して、午前5時戦が始まったそうです。
石碑が立てられております。
橋の上から伊吹山の方を眺めながら陣没者の冥福を祈っております。
1570年に浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍が姉川の両岸に布陣し、合戦を展開したんですね❗
姉川古戦場 橋は、老朽化で通行止です。
姉川に椅子が・・・
姉川の戦い(あねがわのたたかい)は、戦国時代の元亀元年6月28日(1570年7月30日/グレゴリオ暦8月9日)に近江浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町付近)で行われた合戦である。
「姉川の戦い」という呼称は元々は徳川氏の呼び方であり、布陣した土地名から織田・浅井両氏の間では「野村合戦」、朝倉氏では「三田村合戦」と呼んだ。
約4万人が姉川を挟んでの戦い。
この川に4万人が戦ったとは驚きである。
当時は姉川が血の色に染まったことだろう。
今ではその面影もなく橋が通行止めなこともあり静かな場所となっている。
国道365号線近くに有る史跡。
姉川に掛かる野村橋は、老朽化のため歩行者・自転車・バイク以外は通行禁止。
姉川の合戦は、1570年(永禄13年)に、北近江(現在の滋賀県長浜市)に流れる姉川で起きた戦いです。
天下統一を目指す織田信長公・徳川家康公の連合軍と、浅井長政公・朝倉義景公の連合軍が姉川を挟んで対決。
激戦の末、織田・徳川軍が勝利をおさめました。
戦いのきっかけは、同盟関係を結んでいた小谷城主 浅井長政と、天下統一を目論む織田信長の間に生まれた確執だと言われています。
浅井長政は、織田信長の妹のお市の方を妻として迎えるほど織田家と良好な関係を保っていましたが、状況が一変。
織田信長が、かねてから浅井氏と親交があった越前国の朝倉氏を攻撃したことで、大きな確執が生じました。
姉川北岸に、浅井・朝倉連合軍約1万8,000人、南岸に織田・徳川連合軍が約2万8,000人が集結し、徳川軍の攻撃によって姉川の戦いが始まりました。
浅井・朝倉軍が優勢と思われていましたが、徳川軍の攻撃をきっかけで戦況が逆転し浅井・朝倉連合軍は敗戦した。
戦いは、川の水が兵士達の血で真っ赤に染まるほどの激戦で、織田・徳川軍が勝利。
両軍とも多くの犠牲者を出し死者は約3,000人、負傷者はその約3倍はいたと言われています。
市内には「血原」や「血川橋」といった地名残です。
川を挟んで織田徳川連合軍が19000と浅井軍18000が対峙して激戦が展開された古戦場です。
見晴らしが良く両軍の布陣状況等を想像しながら、ここであった戦いに往時に思いを馳せる事が出来ました。
ただ古戦場なので、面白さ半分に行くのではなく、礼儀正しく振る舞う気持ちを持って訪問して下さい☺
姉川の北岸にあり、工場や人家が立ち並ぶ南岸に比べると田が広がり人気が少ない。
野村橋は老朽化につき車両立入禁止。
近くに血川、血原という激戦区と思われる地名があり、その説明も詳しくありました。
赤い看板の幅が、血で染まった血川の幅らしい。
(今は埋められたそうです)
横山城のあった山から北側の姉川にかけて、まさにこここが戦場であったという地形!戦闘の進行状況を思いはせながらこの場所にいると、まさに感動です。
ぜひ予習して行くことをおススメします。
多分、何も考えずに行くと、ふ~んという具合になると思います。
橋は老朽化で車両通行止・・駐車スペースが少しあるので車を停めて散歩しました。
橋の上を歩いてみても、土手沿いを少し歩いてみても、姉川の河原の広さを見ることが出来ます。
沢山の命が散ったこの場所が大して取り上げられてないのは寂しいことだ・・・
1570年に織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政・朝倉景健連合軍に勝利した場所。
長浜市野村町の〔野村橋〕北詰に「元亀庚午古戦場」と刻まれた〔姉川古戦場〕の碑が建っている。
そばに、芭蕉晩年の弟子、直江木導の句碑が建っている。
春風や麦の中行く水の音 木導 直江木導は彦根藩士。
隣に説明の碑が浅井町によって建てられている。
野村橋は老朽化のため、車両の通行はできない(歩いて渡ってみた)。
歴史を思うと感慨深いものがありますが、実際には何も残っていないです。
戦いについてサクッと勉強できる近くの橋は通行止め。
「歴史的な激戦へとタイムスリップ」往時と今とでは、川筋や水量が違うだろうが、ここに来た多くの方が“これが姉川?”と思うことだろう。
それほど穏やかで小さな川にすぎないのだ。
しかしながら、ここには風情が残っている。
磯野員昌の激戦、真柄十郎左衛門の奮闘などの姿をやすやすと思い浮かべることができるだろう。
近くには、徳川家康が陣を張った『勝山』もあり、一緒に巡るのも一興。
ぜひ、あなたも元亀元年6月28日へとタイムスリップの旅をどうぞ。
名前 |
姉川古戦場 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.4 |
元亀元年(1570年)6月28日浅井長政·朝倉景健の連合軍と織田信長·徳川家康の連合軍がここ姉川を挟み戦っている。
午前5時から始まり午後2時には終えたといわれている。
当初は朝倉側が優勢であったが、側面からの攻撃で次第に敗退していった。
また、一方浅井側も当初、優勢であったがこちらも側面攻撃や家康の加勢のためにこちらも敗退していったという!