ビワイチの際にはいつも立ち寄っています。
古い、謂れは、書いてないが塩水の池の縁の記述が延々とあった、倒壊の心配からか、侵入禁止のマークが、有った、
塩は貴重なミネラルであり、それが内陸部で採取できるとなると、いかに重要な場所であったかわかる。
また、琵琶湖は平安京にも近く、世界地図でみると中東地域の配置にも似ているし、翻訳すると、そのものだったりする。
塩津神社の境内に「平安の石」が置かれているのも興味深い。
昔は舟の移動が主流だと思われ、都や大津などの湖南側の繁栄を、湖北側で対岸であるこの塩津神社付近の地域が水運を使って支えたのではないかと思ったりもする。
また、言葉遊びとしては、湖南側は「大津=オーツー=O2=酸素」、湖北側は「塩津=シーオーツー=CO2=二酸化炭素」という見方もできる。
すごく趣きがあります(`・∀・´)
当社創立の年代は詳かではないが、伝えるところに拠れば、上古この地「志波谷」に塩池あり。
ささやかな池ながら、塩水間断なく湧出で、これを汲んで製塩の業を行うもの23戸あった。
この人等その遠租塩土老翁神を祀り、後又縁の神、彦火火出見尊、豊玉姫尊をも合わせ祀るに至ったと伝える。
玉朝時代以降縉紳顕門の来遊もあり、当社を崇敬せられたのである。
わけても和気仲世近江呂介に任ぜられるや、数次参籠して霊示の随に、誉田別尊を本社境内に、瀬織津姫尊を境外に奉祀した。
文和元年、足利高氏の子義詮、後光厳帝を奉じて当社に参拝され当地の熊谷兵庫直高、治左衛門尉直久等当社を崇敬し、社殿修復に尽くしたが元亀元年火災に罹り殿舎鳥有に帰した。
嘉永年中伏見稲荷神社の分霊を勧請して、相殿に奉祀し、居成明神又稲荷神社とも称した。
明治5年稲荷の神霊を境外地字清水に奉遷し、社名を塩津神社と復称し、同9年村社に、同17年、郷社に列した。
延喜式内未定社。
同43年神饌幣帛料供進神社に指定された。
尚、当社は中葉「海北之宮」の別称があった。
鹽津神社しおつじんじゃ滋賀県長浜市西浅井町塩津浜547祭神鹽土老翁神(しおつちおじのかみ)神武東征を案内した国津神それが社名の由来になっていますが塩津つまり塩の港であり琵琶湖は淡水湖で塩は取れず南の方から塩を運びいったんここで停泊し更に北陸方面に塩を運んだと思われますそれが社名となったと推察。
塩津湊がかつてたいへん殷賑な地であったことが偲ばれる。
書置きの御朱印がありました。
塩津という地名の由来が書いてある森の中に鹿がいた人の気配をを感じて逃げていった。
塩津浜にウィンドサーフィンに行った際に周辺を訪問しました、多くの自然が残り良い所です!
少なくとも明治末頃まで, 神社参道のすぐ前まで琵琶湖が迫っていて, 鳥居の前には突堤があり, 船で直接参詣できる形だったと云う😯-突堤の先には琵琶湖に向かって石の灯籠が置かれていた*のであるが, その灯籠は今, 西へと上がる階段の少し北辺りにひっそり置かれているのであります🐤(*当時の絵図や写真で確認できます)
琵琶湖の北の端に鎮座しています。
中古、海北之宮とよばれていました。
本殿は県指定の有形文化財、拝殿にはスカートの様なヒサシがついています。
ビワイチの際にはいつも立ち寄っています。
名前 |
塩津神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.2 |
湖北の山裾の小さな神社です。