主郭付近土塁、堀、櫓台など良好に残る。
駐車場は道の駅淡河に停めさせて頂きました。
淡河城は播磨一帯の豪族であった淡河氏の居城として知られています。
道の駅近くのローソン横細い道を抜けて案内板が出ています。
道は整備されていて歩きやすかったです。
牛小屋が近くにありますので臭いが大丈夫でしたら容易に登れます。
道の駅の駐車場から見える城跡。
だがしかし、ここに入るには、道の駅の横のローソンの横から農道に入る必要がある。
少し分かりにくい入り口なので、何か案内を道の駅から置いていただければ有難いです。
主郭付近土塁、堀、櫓台など良好に残る。
それ以外は圃場整備により跡形も無し。
付近の寺跡には淡河氏の墓あり。
バイク二人旅。
道の駅の駐車場から見えますが、登城にはお堀(川)を渡らなければなりません。
道の駅の南側とローソンの西側からお堀沿いに出ましょう!板張りの橋を渡ると淡河城跡への登城(所要時間10分前後)が可能になります。
模擬櫓・本丸跡・天守台・稲荷神社などが見学出来ます。
38みねちゃん(動画)。
天守台、空堀が残り、登城道も整備されていました。
道の駅 淡河から建てれた櫓が見られます。
主郭部跡に空壕がめぐる。
復元櫓は印象的。
城跡の風情は感じられなかったけど歴史に興味のある人には又、違った感じ方をするのかもしれない。
淡河城!!!ここはまさに竹田城のような山の城!!!(*^^*)元和元年に一国一城のために廃城となりましたが、しっかりとした守りの硬い内堀に辺りには石垣の面影があります。
道の駅から歩いて数分で着けるので是非、お城ファンの方にはお越ししてほしいところである。
(*^▽^*)淡河氏は有馬氏と手を組、豊臣秀吉と戦うなどと、した、優秀なソルジャーである。
豊臣秀吉軍勢力がせめにきた際、牝馬を戦場に放ち、敵の部隊を混乱させ自城に火を放ち、三木城に向かうという伝説的な活躍をしたという。
(*ゝω・*)なんせ、こんな身近に天下統一を果たした秀吉と戦火を交えた男がいたなんて、びっくらぽんです。
(*^-^*)
淡河城(おうごじょう)は、兵庫県神戸市北区にあった日本の城。
現在は丘の上に田畑となっている本丸址と櫓があり公園になっている。
播磨一帯の豪族であった北条時房の孫にあたる淡河時治の城とされる。
淡河氏は南北朝時代の暦応2年(1339年)に石峯寺・三津田で赤松則村(円心)率いる北朝方と戦い敗れた。
明徳3年(1392年)には淡河範清が養子として赤松氏より季範を養子として迎え、その後は赤松氏に属した。
戦国時代には別所氏に属したが、淡河定範が城主であった天正7年(1579年)に羽柴秀長の攻撃で落城、有馬則頼が城主となった。
慶長6年(1601年)に則頼は三田城に移り、元和元年(1615年)に廃城となった。
道の駅淡河の南側の小高い山に城跡がある。
道の駅から簡単に行ける中世山城。
理由は知らないが、小さな模擬櫓だけが復興されてて、とりあえずここが城跡だったことはよくわかる。
しかしかなりの城マニアでないと、道の駅からの途中にある牛小屋をのぞき込むほうが面白いかもしれん。
道の駅から歩いていけます。
よく整備されています。
簡単に登れます。
遠くからでも見える建造物は模擬天守?模擬櫓台?です。
銀閣寺を模したのか、という感じの意味不明な建造物でした。
付近のローソン横の道が登城ルートです。
そこそこ整備された階段を5分ほど登ると主郭部です。
裏側には空堀土塁ぽいものも見れました。
歴史を感じられる場所でした。
道の駅淡河の駐車場から淡河城の看板と変な建物が見えます。
行き方は道の駅に併設されているガソリンスタンドの左側から酪農場の横を通り登って行けます。
すごく低く道も整備されているので、道の駅からでも10分程度で上(本丸)まで登れます。
淡河氏代々の居城 天正6~8年(1578~1580)羽柴秀吉による三木城攻め後は 有馬氏一万五千石の居城として慶長6年(1,601)まで 淡河と共に栄えてきた 城の遺構は現在 本丸と天守閣 堀を残すだけとなっています。
幅15m深さ3~5mの堀に囲まれ 本丸の南辺に東西50m 南北8~16mの天守台を配する構えは当時の面影を残しています。
本丸の南東には竹慶寺跡が有り 境内には城主淡河氏代々の墓碑があります※城跡に行くまでの畦道には高圧の動物避けケーブルが張り巡らせてあるので注意が必要です。
名前 |
淡河城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.2 |
道の駅から淡河城址が見えます。
紫陽花が綺麗に咲いてました(2022/6/19)