青苔に覆われた参道石段を上がった場所に鎮座していま...
「意上奴神社」は山腹の渓流注ぎ落ちる(不動滝)と樹齢一千年に近い杉との間、青苔に覆われた参道石段を上がった場所に鎮座しています。
拝殿前に向かい左側の境内に(不動尊)の石像が剣を上方に向けて神社を御守りしています。
さすが社叢として参道一帯はシイやタブ、ツバキ、スギの古樹があちらこちらに見えて樹木の薫りが漂います。
細い渓流が参道を左から右へ音を立てて静かに流れ下り、その上に架かる木橋を渡ります。
カジカガエルの澄んだ美しい鳴き声もあちらこちらから聞こえます。
「意上奴神社」はそうした素晴らしい参道を味わいながら参詣します。
さて、奈良平安時代の都、朝廷から派遣され因幡の国の神社を訪れた役人は「意上奴神社」の視察は大変だったに違いありません。
当時の様子が今の様子より開発されていたならば、そんなことはなかったかも知れませんが、果たしてどうだったのでしょうか?。
昨日の宮司さんの言葉の意味合いが少し分かったような気持ちです。
「意上奴神社」を今現在、こうして穏やかな気持ちで参拝できることは幸せなことだと思いました。
くんちゃん頑張って。
式内社 因幡国 法美郡鎮座 意上奴神社(イカム/いぬがみじんじゃ)御祭神:速須佐之男命 (淤迦美神)社殿はその昔、現社地より高所にあったという。
参道入り口付近に駐車可。
名前 |
意上奴神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
5.0 |
孝徳天皇大化4年(648)の創建と伝えられている。
吉田家本『延喜式神名帳』に、仁徳天皇55年、360余歳の武内宿禰が因幡国に下降し、当社の鎮座地である宇倍山中腹の亀金山に双履を残して行方知れずとなったとの註があり、武内宿禰の終焉の地とされる。
現在の本殿裏にも「双履石」と呼ばれる2つの石が残っているが、これは古墳の一部が露出したもので、武内宿禰に関する伝説は後世の付会であろうとされる。
『因幡国伊福部臣古志』には伊福部氏の第16世、伊其和斯彦宿禰(いきわしひこのすくね)が成務天皇の御代に因幡国造になり、同天皇から賜った太刀等を神として祀ったとの記述があり、同書には当社に関する記載がないので、この記事を当社のことと仮定すれば、この時の創祀であるかもしれない。
本殿の後の丘は亀金(かめがね)と呼ばれ、古来、祭神ご昇天の霊跡であるといわれ、宿禰双履の跡と伝えられている。
先年この双履の跡の下から粘土床を有する古墳が発見された。
地下1.2mの所から竪穴式石室が発見され、古墳時代前期末から中期の円墳(もしくは前方後円墳)の1部であることが判明した。