大きな像があり、自然がいっぱいでした!
木地師の資料館に向かう道中、木地師の祖と言われている惟喬親王の御陵を発見。
ご挨拶してきました。
下から見上げた像のお顔を、拝顔すると最初は怒った顔のように見えましたが、手を合わせた後は、微笑んでおられるように変わりました😊『天を敬い人を愛す』歓迎していただいたかな😁?
2021/7/23文徳(もんとく)天皇第1皇子である惟喬親王(これたかしんのう:844-897)の御陵。
山道沿いにいきなり現れるとけっこう不気味で、どこぞの新興宗教かと思った。
第55代文徳天皇の第一皇子である惟喬親王は次の皇位を継ぐ筈であったが、時の摂政関白、藤原良房の娘と文徳天皇の間に生まれた第四皇子、惟仁親王が第56代清和天皇に即位した。
皇位継承に敗れた惟喬親王は失意の内、わずかの家臣をつれ、貞観元年(859年)15才の時、都を逃れ小松畑と呼ばれていたこの山中に幽棲したといわれている。
王朝の華やかな表舞台から退き山深い里に隠棲、病没された「悲運の親王」は、やがて、木地の良材をもとめ山野を渡り歩いていた山の民により、「木地師の祖」として甦り、尊崇を受けることになった。
惟喬親王は法華経の巻物の紐を引くと、巻物の軸が回転するのを見て轆轤(ろくろ)を考案発明したと伝えられている。
この地から多くの木地師が日本全国に散らばっていったという。
全国各地の木地師縁の家の多くは、今も君ヶ畑を本籍地としている。
惟喬親王は実在の人物ながら、悲運の貴人の「ものがたり」の登場人物と見るべきで、この御陵もその象徴とされるべきものだろう。
全国あちこちにある「小野小町の墓」と同じ。
ほんとうにここに親王が葬られたわけじゃない。
かつての木地師たちが親王への尊崇の念をかたちにしたもの。
この地が惟喬親王ゆかりの地と何かで読んだ気がするが、御陵がここにあるとは通りすがりで気が付いた。
木地師の祖・悲運の皇子と言われる親王の御陵、何とも物悲しいところである。
名前 |
惟喬親王御陵 |
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ジャンル |
/ |
住所 |
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評価 |
3.9 |
かなり山深いところにポツンとあって、これが1000年以上も前の話だと思うと、えらいとこに流刑されたんだな、としみじみ感じました木地師の歴史木地師資料館のパンフレットより貞観元年(859年)藤原良房を背景とする皇位継承の煩いを避けて都を逃れ、愛知川沿いに鈴鹿の山深く分け入り、この地に幽棲された文徳天皇の第一皇子惟喬親王は法華経の巻物の紐の原理から、里人に綱を引いて軸を回転させる手引きロクロを造り、椀や盆を製作する木地挽きの業を伝授されたと伝えられている。
往時は、筒井千件、小椋千件、藤川千件と言われるほど木地師が数多く住んでいたが、中世末期の頃より、材料の原木が無くなると彼らは、次第に全国各地に良質の木を求めて分散していった。
その頃より、この地は、全国の木地師を統括することになり、蛭谷筒井公文所、君ヶ畑の高松御所金竜寺では、諸国の木地師に「山への立ち入り、原木の切り取りは自由という許可証」や、「妻子眷属共々に、諸国の関所を自由に通行できる往来手形」を発行する特権が与えられていた。
また、この地から諸国の山々を巡回した近世の氏子駈帳には、実に数万戸の木地師名が記帳されている。