源氏由来、祈願成就の祈祷寺。
正式には鶴林山大御堂寺(かくりんざんおおみどうじ)通称:野間大坊(のまだいぼう)と言うそうで、お寺の歴史は古く、天武天皇(673~686)の時代に『阿弥陀寺』として建立され、その後、弘法大師(空海)が全国を廻った折、この地で一千座の護摩を焚き、庶民の幸福をお祈りされ、そして承歴年間(1077~1081)に白河天皇の皇室繁栄を祈願する寺として、『大御堂寺』と称されたどうです。
源義朝の最期を描いた「最期図」や建長2年(1250年)に藤原頼嗣に寄進された尾張地方最古の梵鐘は、国の重要文化財に指定されているそうです。
また、境内には「お砂踏」(本四国八十八か所各札所のお砂が埋まっており、ここを通れば本四国八十八ヶ所をお詣りしたご利益をいただけるそうです。
)があります。
御朱印は、大御堂寺・野間大坊、各札所を押印していただけます。
源氏ゆかりの寺だけに荘厳で圧倒された。
いい。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』をいろんな角度から楽しめるようなそんな気がした。
(2022_09_21)
平治の乱で平清盛の軍に敗れた源氏の頭領、源義朝の菩提寺です。
元は義朝を襲い命を奪った、長田忠致親子の宅地跡と聴きます。
義朝の墓には、風呂に入った義朝が丸腰でいた為、「木立の一本でもあれば、長田如きに撃たれまいが」との逸話から、いつしか、木刀を捧げるようになったとか。
今でも義朝の墓には、うず高く積まれています。
初詣‼️まぁまぁの人出あり。
駐車場割りと広く、誘導員がいて案内してくれる。
雰囲気のある場所でした。
源義朝のお墓があるのが凄い‼️
平日の昼間に伺った為、空いていました。
駐車場は広いです。
知多の88箇所巡りが全部回れることで有名です。
中学の頃から初詣の定番です。
不可能同然でしたが、一か八か祈願したら風車の弥七の二代目が成就しました!
50番51番札所だったり源頼朝の父義朝のお墓が有ったり由緒正しきお寺でした。
野間の大坊。
駐車場広いです!南知多七福神の1つ大黒さんがあります。
御朱印は2種類と、その他源氏の御朱印あります!源頼朝、源義経、源義朝🛕
真言宗豊山派の仏教寺院ご本尊「阿弥陀如来」 山号「鶴林山」正式名「鶴林山無量寿寺大御堂寺」通称「野間大坊」創建「天武天皇(673年〜686年)」と伝わります。
お寺がある美浜町野間は、源義朝の最期の地であり、境内には義朝のお墓がありました。
義朝は、平安時代末期、平清盛と争った、河内源氏5代目当主であり、あの有名な源頼朝・源義経の父親です。
現在、源頼朝が造営させた大門、また鐘楼堂には、鎌倉幕府5代将軍・藤原頼嗣の寄進による、梵鐘などがあります。
梵鐘には建長2年(1250年)の銘があり、国の重要文化財に指定されています。
知多の古刹、春先の陽気に静かな境内に子供と訪れました。
手を合わせ、古に想いを巡らせました🎵
客殿は豊臣秀吉の晩年の居城「伏見桃山城」の一部を寛永年間(1624〜43)に移築したもの。
本尊は「開運延命地蔵菩薩」(秘仏)源頼朝が幼少の頃より拝んでいた地蔵尊。
1190年に源頼朝公より当山に納められた。
知多四国を回られている方を見かけました。
蝋梅の花、梅や早咲きの桜もちらほら咲いていました。
《祈願成就の寺》通称「野間大坊(のまだいぼう)と呼ばれ、飛鳥時代に開創された、大変古い寺院です。
広い境内には、本堂(美浜町指定文化財)や客殿(愛知県指定文化財)を始め、鎌倉時代作で尾張地方最古の梵鐘(国指定重要文化財)、この地で非業の最期を遂げた源義朝公の御廟等、多くの見所があります。
また、狩野探幽探幽の作品(国指定重要文化財)、阿弥陀如来座像(愛知県指定文化財)や阿弥陀如来立像(美浜町指定文化財)等、数多くの貴重な仏像や、算額(愛知県指定文化財)等の文化財も所蔵しています。
久しぶりに野間大坊さんに初詣に行って参りました🎍🙏コロナ禍のお詣りということで道路も一方通行にしたり、駐車場も係員さんが常駐したりしてスムーズにお詣りが出来ました。
境内に足を踏み入れて先ずはビックリ👀‼️なんと‼️露店がびっしり並んでなかなか盛況で、たくさんのお詣り客が溢れています。
消毒も至るところに常備されていて、気持ち良くお詣りができます。
本堂では胡麻薪が行われてたくさんの方がご祈祷をされていました🙏🙏帰り道も一方通行になっていて、清々しい気持ちで帰路につくことができ良いお詣りが出来ました✨今年も良い年になるとなれればと願います🙏コロナが早く終息しますように🙏🙏🙏
一度は訪れてみたい知多半島の名刹。
落ち着きますよ。
野間大坊(のま だいぼう)は、愛知県知多郡美浜町にある真言宗豊山派の寺院。
本尊は阿弥陀如来。
山号は鶴林山。
正式には鶴林山無量寿院大御堂寺(かくりんざん むりょうじゅいん おおみどうじ)と称し、宗教法人としての公称は「大御堂寺」である。
寺がある美浜町野間は源義朝の最期の地であり、境内には義朝の墓がある。
境内にある源義朝の墓。
石塔の周りには無数の木刀が供えられる。
『大御堂寺縁起』には、天武天皇の時代に役小角が建立、聖武天皇の時代に行基により中興されたと伝えられる。
その後空海が知多半島を訪れた際に一千座の護摩を炊き庶民の幸福を祈ったといわれる。
寺に伝わる室町時代の天文3年(1534年)の再興勧進帳に記載された縁起によると、承暦年間(1077年~1081年)に白河天皇の勅願寺となり、このとき「大御堂寺」と称せられたという。
以上の伝承には確証はなく、創建の正確な時期等は未詳である。
『吾妻鏡』文治2年閏7月22日(1186年9月7日)条には、義朝の墓に関する次のような記述がある。
平康頼(『平家物語』の「鹿ケ谷の陰謀」の登場人物として著名)は尾張守として任地にあった時、野間庄にある義朝の墓が、守る人もなく草が生い茂って荒れ果てていたので、小堂を建て、田三十町を寄進し、僧6名を置いて供養に当たらせた。
義朝の子である頼朝はこの功績に応え、康頼を阿波国麻殖保(おえのほ)の保司に任じたという。
同建久元年10月25日(1190年11月24日)条には、上洛途上の頼朝が、この日、野間庄にある父・義朝の墓に詣でたことが記されている。
荒れ果てた墓を想像していた頼朝は、立派な寺が建ち、供養されていることに感心した。
寺伝ではこの時に頼朝が父の菩提のためを寄進を行い、伽藍を整備し、自らの守本尊である地蔵菩薩像を安置したという。
時代が下ると、豊臣秀吉や徳川家康の庇護を受けてさらに発展、現在に至る。
現在、頼朝が造営させたという大門や、鎌倉幕府5代将軍・藤原頼嗣の寄進による梵鐘などが現存している。
梵鐘には建長2年(1250年)の銘があり、国の重要文化財に指定されている。
平成23年(2011年)12月2日に、富山大学の調査により所蔵の来迎阿弥陀像が鎌倉時代の快慶によって作られた可能性があると発表された。
平治元年(1159年)、平治の乱に敗れて東海道を下ってきた義朝は、随行していた鎌田政清の舅・長田忠致の許に身を寄せるが、忠致・景致父子は平家からの恩賞目当てに湯殿(野間駅の東にある法山寺にあったとされる)で入浴中の義朝を欺し討つ。
この時、義朝は「我れに木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだとされる。
野間大坊にある義朝の廟には、この故事に因んで幅約3センチ、長さ役約40センチの木刀が山のように供えられている。
また境内には義朝の首を洗ったとされる「血の池」があり、国に異変があると、池の水が赤く染まると言う伝説がある。
御朱印を頂きに伺いました丁寧に対応していただきました静かな感じで落ち着いていました思うより広くて遠いです知多四国八十八51番尾張三十三観音8番野間開運七か寺霊場7番南知多七福神大黒天。
偶然、豆まきに遭遇でき、しかも豆、餅までゲット今年は良いことありそう☀
ここを訪れば、お遍路さんをやったことになる素晴らしい場所です。
子供の頃、家族で海水浴の帰りに何度か訪れ、父から源 義朝の話を聞いたことをよく思い出します。
今日、子供を連れた家族連れが何組も居ました。
その子供たちが歴史に興味をもつことは間違いないでしょう。
境内には軽食を食べるお店もあるので、ゆったりとした気持ちで行かれることをオススメします。
源頼朝と源義経の父親である源義朝のお墓があるお寺です。
お墓には義朝が部下の裏切りで討たれる前に最期に言ったとされる言葉で「小太刀さえあればこのようにむざむざと討たれぬものを!(お風呂から上がった所を狙われたため丸腰だった。
)」に誂えて、小太刀を象った願い木が夥しく奉納されていました。
境内には御抹茶や二八蕎麦をいただけるお休み所があり、ホッと一息つくことが出来ました。
平安後期から戦国時代にかけての黒い歴史が刻まれているという感じ。
残念なのは境内の清掃状態。
もう少しなんとかならないものか。
知多半島の名所本殿など、特に何があると言うわけではないのだか…。
知多半島の寺社88巡りの半分を簡易的に巡ることが出来る小道がある。
駐車場が三ヵ所あり、空いていれば、中央の駐車場が近い。
お砂踏みがあり四国八十八ヶ所の砂が埋まり順拝路があります。
隣接する大御堂寺本堂があり野間大坊客殿にて御朱印はお受け出来ます。
護摩祈願や供養等も行っていました源義朝御最期の絵解に興味ありましたがこちらは予約で有料とのことです。
御朱印は野間大坊と大御堂寺。
源氏由来、祈願成就の祈祷寺。
鶴林山大御堂寺(かくりんざんおおみどうじ)通称:野間大坊(のまだいぼう)天武天皇(673~686)の時代に『阿弥陀寺』として建立しました。
その後、弘法大師(空海)が全国を廻った折、この地で一千座の護摩を焚き、庶民の幸福を祈りました。
そして承歴年間(1077~1081)に白河天皇の皇室繁栄を祈願する寺として、『大御堂寺』と称されました。
のちに源義朝がこの地で謀殺され、それを供養するために源頼朝が本尊様の念持仏を寄進し、塔や金堂(こんどう)講堂など諸設備が調った七堂伽藍を造営します。
また豊臣や徳川の庇護も厚く、各時代で繁栄してきました。
本尊様が源頼朝の願いを叶えたことから、祈願成就・開運の寺として信仰を集めています。
建久元年(1190)に開運延命地蔵尊(お地蔵様)と不動明王・毘沙門天を納めました。
そして七堂伽藍を造営します。
その後、豊臣秀吉公、徳川家康公の庇護をうけて発展しました。
現在では、尾張地方屈指の護摩祈祷の寺として信仰を集めています。
野間大坊の楽市を毎月第1日曜日に開催中、美浜町立野間小学校6年生による野間大坊ボランティアガイドを1月下旬に3日間実施しています。
10:00〜12:00源義朝公のお墓がある野間大坊の歴史などをとても丁寧にガイドしてくれます。
織田信孝信長の三男本能寺の変で信長死後、秀吉が挙兵、秀吉に降伏後に知多半島 野間大坊に送られ自害を秀吉から迫られた。
自害の時に使用した刀は父信長が秀吉に与えた刀、信孝は悔しさから自分の腸を掴み出し梅の掛け軸に投げつけた。
野間大坊(大御堂寺) のまたいぼう(おおみどうじ)除夜の鐘12月31日 23:45~ 重要文化財の鐘が並んだ順番で誰でも突けます。
露店が遅くまで立ち並びます。
初 詣1月1日~3日は特別祈祷で護摩焚を行っています。
異変が起きる前に池が赤く染まる血の池阪神淡路大震災の時も赤く染まったってそうです。
野間大坊京都伏見城の一部を移築したと言われている建物があります。
護摩サンスクリット語の「ホーマ」を音訳したもので、焼く、焚くという意味があり、供物として焼かれた護摩木の煙が天に届くことで、天は代わりに人に福を与えると言われてます。
知多半島に護摩焚きを行うお寺が幾つも有り野間大坊もその1つ。
名前 |
大御堂寺 野間大坊 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
0569-87-0050 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.0 |
源義朝公の墓所がある事でも有名な野間大坊へ伺いました。
以前より存在は知っていましたが、表通りからは比較的奥まっているのと、近くに寄る機会も無かったので、今回が初めての来訪です。
平日の昼前に伺ったので人気は無く、厳かな雰囲気の中参拝しました。
源義朝公の墓所では木板に願いを記入して、墓前に納めるのが習わしで、木板は祈祷料として¥500であります。
また本四国八十八ヶ所の各所のお砂が埋まっているというお砂踏みという場所が客殿にあり、この経路の真ん中を歩くと本四国八十八ヶ所をお詣りしたご利益を得られるとの事です。
西側の大通りから侵入してくると、途中道が狭くて対向車が気になるので、参拝される方は対向車に注意してお詣りください。