更級斗女神社の特徴
名前 |
更級斗女神社 |
---|---|
ジャンル |
/ |
住所 |
|
評価 |
3.9 |
更科斗女神社(さらしなとめじんじゃ)⛩️斗女郷の精霊地主神とする由縁とされているが、記録では、元歴元年(1184)斗女郷の冨部(戸部)三郎家俊の氏神として頭訪大明神が祀られていたとされる。
この三郎家俊は、この付近一帯を領していた豪族であったが平家に組みしていたことから、治承5年(1181)横田河原の戦で木曾義仲軍に敗れ命を落としているので、没後に創祀されたようである。
近隣には社号に「斗女、斗売(トメ)」を附した神社⛩️が幾つか存在するが、地籍と地名が入り乱れているのでその関連性は定かではない。
古代の信濃國更科郡斗女郷と氷鉋郷は隣接しており、平安時代よりここ一帯の文化圏はひとつであったと思われる。
戦国時代の混乱期を経て、江戸時代に分村が進むと氏神や郷神は分祀、合祀が繰り返され、洪水で地籍が変わっていたり社号が変わったりと社歴の詳細が不明な場合が多く、現在の更北・川中島地区には諏訪社・伊勢社・八幡社が非常に多い。
祭神:健御名方富命(たけみなかたとみのみこと)・八坂斗売命(やさかとめのみこと)末社:八幡社、稲荷社など(案内板より抜粋)応永7年(1400)村上民の領地文化12年(1815)戸部村訪社は、更科斗女神社の社号となる。