とても、感じが良い神社です!
軽自動車でギリギリ通れるくらいの道端のところを通り、たどり着きました!伊勢神宮ゆかりの神社だそうで、厳かな空気感がありますが、大変居心地よい神社です。
本殿裏の木々もまた素晴らしい空間でした。
(中にははいっていませんが)
伊勢山神社は、基山駅の東1.3kmほどの九州道のそばにある神社です。
駐車場の近くにはお洒落なログハウスのカフェがあります。
入り口の鳥居は伊勢神宮などと同じシンプルな神明鳥居で、横には明治12年(1879年)に植えられた御神木の楠が聳えています。
御祭神は、天照皇大神・萬幡姫命・手力雄命です。
第62代村上天皇の天暦9年(955年)、県主が伊勢神宮の分霊を勧請したものと伝えられます。
後世この地が対馬島主宗氏の所領となり当社を領地し、鬼門鎮守神と仰ぎ、神職を置いて奉仕させ神宮の大麻を領布しました。
伊勢神宮より大麻を領布するようになると領内領布の総元と定め、これより伊勢山神社と称するようになりました。
昭和47年、九州自動車道建設に伴い社地の一部がその用地として買収されたので、神殿は古来の神明造りのままとし西側に移転新築して現在に至ります。
伊勢山神社(イセヤマジンジャ)【祭神】天照皇大神(アマテラススメオオカミ)・萬幡姫命(ヨロズハタヒメノミコト)・手力雄命(タヂカラオノミコト)【住所】佐賀県三養基郡基山町大字小倉732番地1【参拝メモ】本堂は、伊勢神宮と同じ神明造です。
伊勢山神社の由来祭神 天照皇大神 萬幡姫命 手力雄命 伊勢山神社創建については人皇代㐧六十二代村上天皇の天暦九年(九五五)十一月時の県主が伊勢神宮の分霊を勧請したものと伝えられる 後荒穂宮の五所宮の一として荒穂宮より神饌を奉っていた 後世この地が対馬島主宗氏の所領となり当社を領地の鬼門鎮守神と仰ぎ別に神職を置いて奉仕させ且つ神宮の大麻を領布せしめていたが伊勢神宮より大麻を領布するようになると領内領布の総元と定めたれたこれより伊勢山神社の称が起こった 明治六年村社に列せられたが祭事は古来通り神課二十人にて行うことになった 境内に埴安社(祭神 埴安彦命)を祭る 古より御神期と称し六十年毎に大祭二十年五智に小祭が行われている 大祭は近くは弘化四年(一八四七)明治四十年 昭和四十二年であった 古の御神期の神事に当たる者は七日間家に帰らず神社に泊り込みで水垢離をとり身を清めて奉仕したという 伝説によれば光格天皇の天明年間に大飢饉が続いた上に眼病が流行し住民が困窮していたとき当社の一番下の石段の東側にあった榆の古木の虚になっている中から滴り落ちている清水が眼病に効験があるとの噂が広がりその霊水を頂きに筑後筑前はもとより肥後あたりからまでも参拝者があり社頭は大いに賑わったという その神木は生け垣で囲んであったが今は枯れてなくなりその跡に楠が植えてある 一千年の歳月に御神体も表裏の識別もできないまでに風化していたので昭和九年鳥栖町の堀彫刻師に依頼して新たに刻み筑紫神官により御神入れを行った この御神体に紀元二千五百九十五年と刻み後世に遺した 昭和十九年時の町長天本龍之助氏の仲介により伊勢山神社の資産とともに祭事一切を小倉区に移管した 昭和四十七年四月九州自動車道建設に伴い社地の一部がその用地として買収されたので神殿は古来の神明造りのままとし西側に移転新築して現在に至る境内由緒碑伊勢山社 三養基郡基山村大字小倉祭神 萬幡姫命 天照皇大神 手力雄命 菅原道真 彦火々出見尊 鵜葺草葺不合尊 國常立尊 天暦九年十一月時の縣主,伊勢神宮の分霊を奉祀せりと傳う,後荒穂五所宮の一つとして荒穂神社より神饌を奉れり,後世此地の宗對馬守の領となるや,領地鬼門の鎮守神と仰き,別に神職を置きて奉仕せしめ,且神宮の大麻を領布せしめられしか,伊勢神宮より大麻領布の事あるや領地の領布総元と定めらる,此より伊勢山社の稱起これり,明治六年村社に列せられ,小倉區の小部落のみを氏子とすることゝなれり。
合祀に依り菅原道眞外三柱の祭神を追加す。
氏子戸数 八十四戸 境内神社 埴安社 祭神 埴安彦佐賀県神社誌要。
名前 |
小倉伊勢山神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.2 |
小さく古い神社だが、まめに人の手が入っていて綺麗だった。
敷地内もきちんと掃き清められていた。