愛する我が家のワンコの合同葬儀でした。
駐車場あり。
ペット同伴可。
喫煙所あり。
お食事処あり。
・・・観光向けにキッチリ準備されているカンジで安心感あります。
お食事処は(14時頃でしたが)かなりお客さんが多い様子で、人気があるのが分かります。
その反面、辺りは(土曜でしたが)混雑しておらず落ち着いた雰囲気。
近くを流れる水の音、キレイな境内、野鳥の声が響き、周囲の自然も相まってとても美しい場所でした。
高尾駅から少し歩きますが、それでも参拝する価値はあるかと。
初沢川をさかのぼった山あいにある。
700Mばかり手前の浅川中学校の近くに総門跡の石碑があるから、昔はかなり広大な寺院だったよぅです。
600年余り前の開創で豊臣秀吉の軍が八王子城を攻めた折、本陣にしたと伝えられています。
青く澄む池に、生まれ年の干支の護リ本尊があり、自分の干支の前で手を合わせました。
鐘楼堂が紅く色づいた木立と調和して、子供の頃、郷里で見た光景にどこか似ていて懐かしい。
奥に大きな霊園があり、ペットのお墓もあるようです。
入口にある慈照閣には黒衣装の人たちが集まっていました。
9月上旬に初沢城跡の帰路に立ち寄った。
JR高尾駅から高尾霊園に向かう途中に立地している。
なだらかな坂を上り切ったまさしく高尾の奥座敷に佇む静寂なお寺である。
その歴史は古く、1394年片倉城主により臨済宗のお寺として開創された。
のちに曹洞宗の高僧が全国行脚の道中で、この地にとどまり荒れた本堂を復興して新たに曹洞宗の寺として今に連なっている。
ちなみに本堂は明治16年に上棟されたと記されている。
境内は奥座敷に似合った、ゆったりとした造りで散策しているうちに心が平穏になっていくようだ。
訪れた日がたまたまお寺で何かの会があったようで三々五々、お寺の本堂から数十人の初老の男女が出てこられた。
私も後を追うように高乗寺の境内を後にした。
あと、忌野清志郎が眠るお墓があることでも広く知られている。
鶴見の總持寺は今から100年前の1911年明治44年 11月5日に石川県輪島市門前町から盛大な遷祖式を挙行して移転してきた。
そのご移転に至るまでの当時の流れについて新聞資料を中心に説明したいと思う。
1898年明治31年4月13日夜半、曹洞宗大本山總持寺の法堂から出火し、折からのフェーン現象も重なり、一夜にして灰燼に帰した。
その焼失の状況を明治31年4月15日の『横浜貿易新報』は次のように伝えている。
記事はまず總持寺の歴史、名刹、大伽藍などを記した後で、「一昨十日の夜如何にして火を失しけんさしもに広大なる殿堂ハ数時間にして悉皆烏有に帰したる由是れ大伽藍一夕の中に灰燼となしたること曹洞本末の悲嘆ハ云ふ迄もなく国家に於ける名刹保存の趣旨に照らしても実に惜しむべきの限りと云ふべし」と伝えている。
伽藍の中心である仏殿、法堂、紫雲台、放光堂、大庫裡、勅門、祥雲閣、役寮室、衆寮、鐘楼などの中心堂宇が焼失して、翌日の午前2時頃に鎮火した。
延焼を免れたのは僅かに伝燈院、慈雲閣、経蔵、三松関などである。
同日の『読売新聞』は「後醍醐天皇の綸旨ありし名刹にして、仏殿法堂勅門庫裏僧堂相連なりて、一山数十棟の殿堂を一昨十三日の夜、如何にして火を失しけん、此の広大なる殿堂を数時間の間に悉皆烏有に帰したる由の報あり。
電文にして詳細を知るに由なけれ」と伝えている。
こうして多くの新聞が總持寺の火災をビッグニュースとして報道したのである。
明治31年5月15日に東京出張所から発行された鳥瞰図、『曹洞宗大本山諸嶽山總持寺焼失並残存区分真図』には中央の赤い部分が焼失した伽藍として表し、如何に重要な部分が焼失したか、が一目瞭然に理解できる。
『宗報34号付録』明治31年5月15日に上述の鳥瞰図を付けて、東京出張所監院・石川素童師は宗務局並びに全国末派寺院へ罹災状況を詳しく報告している。
さて、再建を実質的に進めなければならない立場にあった監院職の石川素童師は、早速に東京出張所から明治31年4月28日に、全国の関係寺院に罹災状況を説明し、再建本部を設置したことを『宗報33号』で伝えている。
早速に明治31年10月21日、28日に總持寺直末寺院会議が開催され、總持寺の再建が検討された。
翌年11月5日には宗務局より「一宗協力して大工事の達成を期す」との告諭が永平寺と總持寺の両貫首の連名によって能登に諸殿堂を再建することを発令され、費用の募集組織などを策定した。
この時点では『北国新聞』によれば、能登の地における總持寺の復興再建計画であった。
しかし、その1週間後に東京深川の長慶寺住職・武藤弥天師などから「總持寺東京移転建白書」が提出された。
多分、この焼失を「祝融の災」と捉えて遷山を唱えたと『鶴見興隆誌』は述べている。
現況を見れば、能登の總持寺は明治政府の宗教政策により曹洞宗大本山としての維持を続けるためには経済的な困難が推測された。
それは、新政府の「神仏分離令」と「社寺領上地令」により前田家からの資金援助もなくなり、経済的な基盤を失っていたのである。
一方、内部からの制度改革により、永平寺と總持寺が同格の本山となり、教団の近代化も進行していた。
こうした厳しい状況を鑑みると、帝都から離れた能本山での再建がよいか、疑問視される。
火災前にも總持寺は東京に移転すべきとの意見もあったという。
この焼失を好機と捉えて本山の總持寺を東京へ移すべきとの建白書が東京府下の曹洞宗寺院から提出されたのである。
その理由は、「第一、一宗の本山を北陸辺陬の地に置くは時勢に適せざる事。
第二、一宗の本山を北陸辺陬の地に置くは不便なる事。
第三、本山を都会付近に移転せしむるは経済上有利なる事。
第四、本山を都会附近の地に移転せしむるは布教伝道に益あり。
第五、御本山の移転地は東京附近なるを要す。
」と納富常天著の『総持寺と曹洞宗の発展』で示している。
東京近郊の移転先候補地として横浜鶴見の他に、八王子の永林寺や高尾の高乗寺、松戸の広徳寺などが本山移転候補地として取りざたされたことが当時の新聞記事から推測できる。
松戸市中金杉4丁目の「広徳寺」は、裏は平安時代からの広大な牧場が広がっていた。
八王子市下柚木4の「永林寺」も広大で、裏山は柚木城跡に繋がり、現在でも長い参道を抜けると、左手の山腹には立派な三重塔の建つ寺院である。
★高尾の高乗寺も大きな寺院で、大きな霊園を営み、高尾駅から直通のバスが運行されている。
それら候補地が検討された後、横浜鶴見に曹洞宗大本山總持寺は建設された。
鶴見に決定した経緯今から百年前の鶴見は本山が創建される地に最もふさわしい条件の整った土地であった。
鶴見は、神奈川県橘樹郡生見尾村(生麦・鶴見・寺尾)といい、眺望の素晴らしい閑静な農漁村であった。
帝都と開港された横浜の中間にあり、交通の便に恵まれた土地であった。
明治39年3月20日の『横浜貿易新報』には「同地は恰も京浜間の中央とも云ふべく、鶴見停車場を距る僅か二町余、加之のみならず、京浜電鉄の便もありて、敷地となすべき処は・・」と正面は海、遠く房総半島、西南は富士山と箱根山、北は品川の海、東南は横浜市中や本牧とその眺望の良さを示し「地味豊穣にして禾黍穣々、樹木は繁茂し、清水は湧き、遠く俗塵を隔だて、解脱悟道の霊場となすに適当なる地勢なれば、雪巌氏は直ちに其旨を貫首に報告し・・」と記されている。
『皇室と總持寺』でも、「鶴見停車場から西の方へ三町程、松林がこんもりと繁っている処で、北には二見台、南は富士見台の景勝を控えて其の中央の竈のやうに深く入り込んだ処には清冽な四時涸れずに湛えて居ります」と説き、近接する現在の京浜工業地帯を考えると隔世の感がある。
当時は總持寺を建立するのに相応しい景勝の良さと信徒の訪問にも最良な土地であった。
更に、鶴見移転説が有力になった最大の理由は、副監院の栗山泰音師と鶴見・成願寺の加藤海応師との親密な関係が具体的に進展したことである。
元八王子町から引っ越した最初の場所の近くの寺です。
小学校生の時の先生が、住職されていました。
この脇に土地を購入ったらと言われましたが、買いませんでした。
大きな霊園が有ります、ペットのお墓もあります。
妹の家のお墓もあります、川を辿って行くと峰の薬師まで行けましたが、今この道は閉鎖されています。
昔は、奥にも家があった様です。
寺は、毛利家とも関係が有るらしいので、毛利家でも調べた様です。
池の前に素晴らしい石像があります!
名前 |
髙乗寺 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
042-661-6852 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.4 |
八王子三十三ヶ所観音霊場第十九番です。
御朱印頂きました。
忌野清志郎氏のお墓があります。