この世のものとは思えない美観を奏でる。
木曽義仲の嫡男、源義高こと木曽義高が討ち取られた地です。
12歳、現代なら小学6年生ですね。
敷地内には八幡宮があり、大きな旗で終焉の地と書かれてます。
本当に小さな神社ですが、源義高の悲劇を知るものとしてはより一層の悲哀を感じる場所でした。
ここに北条政子も参拝したとの言い伝えもあり、当時に思いを馳せるとタイムスリップした気分に浸れます。
義高の将来を恐れた頼朝 なんとか生かしたかった大姫と政子 ここで生涯を終える刹那、12歳の彼は何を思って死んでいったのだろうか…800年以上経って場所すらハッキリ分からなくなっているけれども、壮絶な出来事がこの辺りで確かにあったと伝えられている。
鎌倉時代 直前 木曽義仲の嫡男 義高がこの地で討たれた。
その源義高を北条政子がここに祀ったとされる。
義高は木曽義仲の人質として源頼朝の大姫に入婿なった。
しかし木曽義仲は源頼朝の追討を受けた義経に討たれる。
大姫と母北条政子は五人の従者と共に義高を逃がすが 嵐山に頼る途上 ここ入間川の渡し舟を降りた地点で見つかり鎌倉街道信濃坂下 影隠地蔵堂にて源頼朝の追手に討たれた。
敷地内に1本立つイチョウの木が秋になると黄金色に紅葉し、形といい葉と幹とのコントラストといい、この世のものとは思えない美観を奏でる。
これだけを観るためにどんなに遠くからも来たくなるような生きた芸術作品となる。
秋に国道を車で走っていてこの神木が目に飛び込んでくると、見とれてしまい事故りそうになることもシバシバ。
清水八幡(しみずはちまん)と大姫 清水八幡には源義高(清水冠者義高)がまつられています。
所在地 狭山市入間川3-35-9。
義高は源(木曽)義仲の嫡子ですが、源頼朝に人質として鎌倉に送られ、頼朝とその妻北条政子との間に生まれた娘、大姫の聟になっていました。
義仲が頼朝に討ち果たされたのを知った義高は、自分にふりかかる難を逃れるため従者六人ばかりと共に祖父義賢の地(大蔵館)や義仲を助けた畠山重能の地(深谷館)がある現在の嵐山町をめざして逃亡しましたが、当地入間河原で頼朝の追手に討ち果たされました。
このくだりは『吾妻鏡』にのっていますが、それによると、政子と大姫は義高の討死を嘆き悲しみ、直接、義高を刃にかけた藤内光澄を打ち首にし、義高の霊をまつるため、その討ち果てた地、入間河原に社を建てたということです。
それが清水八幡ですが、度重なる暴風雨や洪水で当時の社は跡形もなくなり、場所も現在では、はっきりせず、このあたりであろうと思われます(狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会) 義高が打ち取られたのは元暦元年4月26日(1184年6月6日)である。
義高が鎌倉を逃れたのが4月21日であるから、入間河原まで5日もかかっている、この間義高一行は何をしていたのか腑に落ちない、頼朝に謀反を企てる同志を武蔵七党にでも募っていたのであろうか。
義高の享年は12歳。
大姫は20才まで生きたが、このときのショツクが原因でうつ病になり悲しい短い一生であった。
このときの北条政子の悲しみは計り知れない。
頼朝は正治元年(1199)に落馬がもとで没したと伝えられるが、その死は謎が多い。
このとき政子と頼朝の仲はどのようなものであったろうか。
清水冠者と大姫の悲劇は、室町時代に「清水冠者物語」「しみず物語」「木曽義高物語」等の名で物語化されている。
清水八幡は国道16号沿いにある小さな社である。
私はなぜかこの社が好きで幾度か訪れたものである。
名前 |
清水八幡宮 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
04-2953-1111 |
住所 |
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評価 |
4.0 |
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鎌倉殿で(市川染五郎さんで)有名になった木曾義高を祀る神社です。
ドラマの関わりでのぼりはありましたが、他は特に何もなく、潔いと思いました。
テレビに出たからと言って右往左往するのはみっともないですからね。