本日、宮司さんからお話を伺いました。
御朱印があれば嬉しいです‼️
地域の神社、行路が狭くて車一台がギリギリなので運転注意。
狭い登坂ヒヤヒヤでした。
大きい神社ではありませんが、季節毎に催し物があり季節感を感じさせてもらつています。
蚊がいなければなぁ💦(夏はいるね)私はこの場所癒されるよ!パワースポットにしたいぐらい。
2020年 1月参拝。
市内から少し 入りくんだ場所に 鎮座するお社です❗ 道は狭く 離合は 大変です❗急な階段があり… 上がると 緑豊かでとても歴史深く この辺りでは、一番古いお社でした❗前方後円墳など があり…出土品も 弥生時代…の様です‼️御朱印を 戴きに来ました❗社務所の インターホンで 出て来てくださり戴けました🎵気さくな 宮司さんで 色々な お話を して下さいましたよ🎵駐車場が、境内まで 行けるようですが…入口は、分かりませんでした💧鳥居前に、空き地が あったので 急ぎの参拝で 問題は ありませんでしたよ🎵
鳥居の横に一台くらいのスペースがあり駐車して階段を上がりましたが、他にも駐車場がありました境内は広く綺麗にお手入れされていて気持ちよくお詣り出来ます御朱印も頂けますし、宮司さんから古墳の事や神社の歴史など沢山お話を聞くことも出来ます境内は銀杏や紅葉の木がありましたので秋は美しいだろうなと思いました。
御朱印いただけませんでした。
古墳のすぐ横に鎮座されています 宮司さん宅?の社務所で御朱印を頂きました 神社周辺の道が少し狭いです。
毎年初詣に行っています。
本日、宮司さんからお話を伺いました。
ここは見晴らしのいい丘の上に前方後円墳があり、そこを祀った珍しい神社(他はない?)ちと雰囲気は暗め。
古墳から出土した土器は出土時には底の部分しかなく、学者によると2500年前!の弥生時代ものらしい。
古すぎる土器は底しか残らないそうな。
前方後円墳は高貴な身分(天皇家?)の埋葬に使われるらしい。
ここに埋葬された方がどなただったかは今は知る由もないが、造りを調べたところ、朝鮮、九州、大和の方式を混ぜたものだった。
なので2500年前にそれらのエリアを移動していた人による創作である事が分かる。
かつてこの地域に氏の上(うじのかみ。
神ではない)という地域を発展させた優秀な人物がおり、彼を慕って集まって出来た集落がここに没後に前方後円墳を作ったそうだ。
同時に祀るための神社らしきものもあったと推察される。
その頃?その後、全国各地では地域発展に貢献する人物が現れ、日本の各地で氏上(うじがみ)と呼ぶようになったんだと。
今では氏神と呼んでいる祖のようなものだ。
幡生八幡宮という名称の「幡生」はここが八幡の祖である事を示している。
熊野大社でも2050年だから日本の開祖的な神社。
うーん、ロマンあるねー。
山陽本線幡生駅の近く、こんもりした小さな丘の上、小さな前方後円墳の下にある由緒正しいお宮です。
説明板によると、古墳時代₍紀元300年頃、この付近まで日本海の入り江が伸び、この丘はその入り江に突き出た半島であったそうです。
熊襲征伐の準備を整えられた神功皇后がこの入り江を港として用いられたという伝説が残っています。
幡生という地名は、皇后の率いる船団が揚げた旗がまるで生い茂る木々のようだったのが由来だそうです。
また戦国時代の1590年ごろ、朝鮮半島にむけて出兵した豊臣秀吉公がこの宮に立ち寄られ、戦勝を祈願し、8本の松を植えられたと伝えられています。
そのうち1本は1917年まで残っていたそうです。
街中の古墳脇の神社。
防府の神社と同じでフクロウが参拝?するのが珍しいです。
大きい勾玉のオブジェも。
駐車場に行く道が狭い為車で行く方は気を付けてください。
宮司さん親子と話をして、古墳見学や梟を捜してたら、朝から晩まで…終わらないな。
「幡生」の地名の由来がここにある。
宮山と呼ばれる小山の上に創建され小さな前方後円墳の傍にある。
宮山を巡るように北浦街道が下関方面から綾羅木へと抜けている。
下関も福岡同様神功皇后に由来した地であることを付け加えておかねばなるまい。
豊臣秀吉が手植えした松もあったとあるし、愛嬌のあるフクロウ(石造)も見ることが出来るぞ。
帰省した時、たまに参拝している。
神殿の裏手に古墳がある。
神々しい雰囲気が良い。
名前 |
生野神社 |
---|---|
ジャンル |
/ |
電話番号 |
083-252-1568 |
住所 |
〒751-0829 山口県下関市大字幡生宮の下町16−番18号 |
関連サイト |
http://www.jinja-net.jp/jinjacho-yamaguti/jsearch3yamaguti.php?jinjya=6993 |
評価 |
4.0 |
御朱印が、いただかれませんでしたが、とてもいい所でした。