名前 |
多布施公儀反射炉跡地 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.8 |
多布施反射炉の施設がこの碑の裏手に幕末にあった場所です。
藩政期は「公儀石火矢鋳立方(こうぎ いしびや いたてかた)」と呼ばれてました。
名前のとおり、幕府(公儀)の大砲(石火矢)を鋳込(鋳立)製造した場所。
江戸湾防衛のため設置された品川台場に据える鉄製大砲を幕府は佐賀藩に50門発注して、ここで製造。
佐賀藩はすでに築地反射炉で鉄製大砲製造に成功していたため発注となったんだと思います。
反射炉本体は石碑の南にある会社(ミゾタ)敷地で平成21年に発掘調査で確認されています。
佐賀藩は築地反射炉はオランダから入手した設計書に基づき建造しましたが、ここでは炉と炉が向かい合う形態で建造。
忠実に模倣する段階から独自改良にステージがあがってるとこが興味深いかと。
築地は試行錯誤期、多布施は既に確立した技術の改良期とも言えます。
反射炉は大量の鉄を溶かす施設で、それだけでは大砲は完成しないため、炉の周辺には関連施設が当時は立ち並んでいたようです。
石碑の裏手でも金属加工場の跡が発掘されていました。
いまは、静かな住宅街ですが、当時は活気のある最新工場だったかと思うと驚き。
大砲鋳型や反射炉耐火煉瓦、当時の絵図面等を使った説明や見学記録は佐野常民と三重津海軍所跡の歴史館や佐賀城本丸歴史館に展示されています。