九州最大規模の合戦跡地は小郡市役所裏にあった。
筑後川合戦 大原古戦場碑 / / .
九州最大規模の合戦跡地は小郡市役所裏にあった。
だから道に迷う心配は無い。
他にも多数石碑があるね。
でも専用駐車場は無いよ。
って言うか両軍合わせて10万人規模の合戦の地とは思えんほど静かな公園です。
名前 |
筑後川合戦 大原古戦場碑 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
3.2 |
筑後川の戦い(ちくごがわのたたかい)は、南北朝時代の正平14年/延文4年8月6日(1359年8月29日)、筑後川をはさんで南北朝が戦った戦。
大保原の戦い、大原合戦とも言います。
南北朝時代に九州で発生した合戦では最大のもの。
日本三大合戦の一つとの説もあります。
【大原合戰とは】(南朝暦) 正平十四年(一三五九年)七月から八月にかけて、およそ六万人の北軍(少弐・大友連合軍)と、およそ四万人の南軍(懐良親王・菊池武光軍)が宝満川流域の味坂・大原・西島・山隈を含む筑後平野を舞台にして、一大決戦を展開し、両軍の戦死傷者合わせて約二万五千人といわれている。
戦いの結果は南軍の勝利となった。
以後、菊池武光は懐良親王を奉じて大宰府に征西府をおき、十数年間九州政治の実権を握るに至った。
平地戦で短時日にこんなに多数の戦死傷者を出した激戦は稀であるといわれ、その霊魂を弔ったと伝えられる跡やその他の遺跡はいくつも残っている。
左記はその一部である。
一、善風塚南北両軍の戦死者を埋葬した跡といわれている。
二、高卒都婆千人の僧によって卒都婆をたて、両軍の戦死者を供養した所という。
三、前伏(まえぶせ)現在地付近で少弐軍陣所の跡といわれ、今大原古戦場の石碑が建立されている。
四、将軍藤征西将軍懐良親王が大原合戦でご負傷され、大中臣神社の加護で全快されて奉納された藤と伝えられる。
五、菊池渡 (わたし)菊池武光が血刀を洗ったといわれている。
昭和五十年十二月十九日小郡市教育委員会小郡市郷土史研究会。