地味ですが、訪れるべき場所の一つです。
解体された浦上天主堂のごく一部が、ここに移されている。
こんなわずかでは、何も伝わらない。
原爆で破壊された浦上天主堂の残骸を、長崎市はそのまま現地に残そうとしたと言う。
しかし、結局、保存のために移設したのがこれだけでは、保存の本気度を疑う。
もともと、この浦上地区は、江戸時代に隠れキリシタン(=潜伏キリシタン)が住んでいたところ。
浦上天主堂は、信仰が許されるようになってカトリック信者が建てた信仰の拠り所だった。
それが、原爆によって破壊され、信者は再建を願った。
しかし、長崎市全体ではカトリック信者は少数派で、長崎市の多数派は浦上天主堂の残骸を残すことをカトリック信者に求めた。
しかし、信者にとって、その場所は先祖が迫害を受けた地区の庄屋跡で、教会を再建するのはその場所しか考えられなかった。
浦上天主堂の残骸をそのまま残せないことがわかると、長崎市は残骸の一部を移設して保存する方針を決めた。
その方針によって移設されたのが、わずかに1メートル弱四方のこの壁だけだ。
カトリック信者は残骸を大事にしたわけではないので、移転のための金を長崎市が十分に出せば、残骸の全体がわかるように移転することも可能だったろう。
これしか移設せず、その分の金しか出さなかったということは、長崎市が残骸を保存しようとしたのが本気だったのかと疑わせる。
カトリック信者の財産である浦上天主堂をどうするのかに口を出しながら、これではあきれる。
この側壁は聖堂の南側の一部で、1958年(昭和33年)に新しい天主堂建設のためこの地に移築されたものであり、壁上の石像はザベリオと使徒である。
アメリカの口車に乗って、当時の浦上天主堂と市長が、被爆したマリア像とともに撤去を進めた遺構。
かろうじてこれだけが残りました。
本当に愚かな判断をしたものだと思います。
もしマリア像が残っていたら、原爆ドーム以上に(キリスト教の)欧米社会へのメッセージは強烈だったでしょう(だからこそ一部勢力が撤去を進めたのだと思いますが)。
カイザーヴィルヘルム教会になれなかった教会の残骸です。
浦上天主堂 遺壁は、爆心地公園の東側にあります。
爆心地から北東へ約500mの小高い丘にあった浦上天主堂は、1895年(明治28年)から建築に着手し、信徒たちの献金と労働奉仕により、1914年(大正3年)に献堂式を挙げるにいたりました。
そして、1925年(大正14年)に正面の双塔が完成し、大小の鐘が吊されました。
東洋一の壮大さを誇った天主堂でしたが、1945年(昭和20年)8月9日、午前11時2分、原子爆弾のさく裂により破壊され、わずかにまわりの壁を残すのみとなりました。
この側壁は聖堂の南側の一部で、1958年(昭和33年)に新しい天主堂建設のためこの地に移築されたものであり、壁上の石像はザベリオと使徒です。
しかし、風雨にさらされて傷みが進んだため、安全性を考慮して現在の形状のまま内部及び表面の補強を行いました。
大正14年(1925年)に完成。
東洋一のロマネスク様式を誇っていた大聖堂に原爆の悲劇が襲いました。
浦上天主堂は一瞬で倒壊し、堂内の神父様2名と信者数10名が即死しました。
浦上地区では約8500名が亡くなられたそうです。
天主堂は昭和34年(1959年)に再建されました。
この遺構は原爆落下中心地に僅かに残った浦上天主堂の南側の側壁の一部が展示されています。
解説と共に当時の写真もあり、爆風の凄まじさがよくわかります。
浦上教会の焦げた壁の一部が遺されている。
原爆の被害の証拠としてだろう。
通り過ぎてはいけない、足を止めてちゃんと見ておくべきだと思う。
如果浦上天主堂還在,想必跟大浦天主堂一樣都是國寶了。
這個殘留柱沒有廣島原爆圓頂的範圍大,而且也因為某些因素沒有遺留在原先天主堂的位址上,但這無損於它見證了一段過往,見證了人類文明歷史中,眾多殘暴紀錄的一頁。
名前 |
旧浦上天主堂 遺壁 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト |
https://nagasakipeace.jp/japanese/map/zone_inori/tenshudo_iheki.html |
評価 |
4.3 |
原爆資料館の展示はレプリカだけど、こちらは本物。
熱線で焼かれた後に爆風で基礎と上の建物がズレて焼かれていない部分が見えている。
よく見ないとわからないので是非見てほしい。