沖縄戦での海軍の動きが良くわかります。
沖縄戦の爪痕が残る施設です。
数ある沖縄戦の名残の中でも勉強になるレベルとしては上位の施設ではないでしょうか。
壕内は、寒くじめじめして、物々しい雰囲気です。
この通路に負傷兵などが座り込んでいたのか…と思うと戦争の凄まじさすら感じます。
当然、当時より整備された環境になってますが独特の雰囲気と緊張感は感じられました。
個人的には来てホントに良かった。
最後に沖縄の人々を労い、未来を託した電文の内容がとても印象に残っています。
先代の方々が護ってくださったおかげで沖縄の町はとても美しいままでいてくれる事に感謝しています。
日本の歴史、目を背けてはいけない史実として、一度は足を運んでみてはいかがでしょうか。
感化されやすい方は複数人、安心できる方と共に行きましょう。
私は寒気がしました。
気分が悪くなる方もいると思います。
とても貴重な施設で撮影もOK。
中は迷路のような感じで出口を出ると一瞬方向がわからなくなります。
壕内は段差が多くあるため脚の不自由な方には不向きです。
戦争でいかに沖縄の皆さんが苦しんだのか。
今まで観光地として訪問していただけの自分が恥ずかしいです。
旧海軍司令部壕。
沖縄戦の激しさと苦しさを感じさせられる場所です。
この方々がいたから今の日本があると思うと感謝の気持ちが湧いてきます。
沖縄に行ったら必ず行ったほうが良い場所です。
no more war!
戦争当時のまま残された貴重な施設と知り行きました。
沖縄に旅行に来れた事を、有り難く感じました。
貴重な沖縄戦の戦跡。
保存状態も良く、オススメ。
駐車場完備。
入口が上にあって出口が下にあるので、車はどちらかに停めないといけないのが難点かな。
沖縄戦での海軍の動きが良くわかります。
よくぞここまで保存できたと感心です。
5月の連休後なので観光客もほとんどいませんでしたが、見る価値のある場所です。
沖縄に何回も行く人は、そのうち行きましょう!
たったの450円で、当時とほぼそのままの壕内を歩かせてもらえるという、ものすごく貴重な経験をさせてもらいました。
恒久平和を希求するのは勿論、この国を守る為に、最期の瞬間まで戦い続けた人達のことを絶対に忘れてはならない。
そう思える場所です。
沖縄戦における旧帝国海軍の苦闘と平和の尊さを心に刻める場所です。
多くの人々がつるはしでトンネルを掘り、そこに作戦本部や司令官の執務室を作りました。
沖縄線後半には沖縄県内の通常の連絡機能が麻痺したことから、ここから本土へ沖縄の現状を伝えるという役割も担いました。
トンネル内は湿度が高く、環境も決して良かったとは言えません。
ひめゆりの塔(岩に穴を掘って作った野戦病院跡)同様、沖縄の痛みを痛感する場所です。
沖縄の歴史に想いを馳せられる良い時間と空間。
沖縄戦の歴史を身をもって体験するにはここに訪れるべきだと思います。
壕内は当時のまま再現されている箇所が多く、その生々しさが、色々と訴えかけてきます。
上手く言葉では説明できませんが、あまりにも心痛くなります。
それと合わせて、今こうして生きていられることはとても幸せな事なんだなと改めて感じることができる場所でもあります。
美しい沖縄の風景を見るのもいいですが、沖縄でかつて起きたことを肌で感じるのも大切かなと思います。
海軍司令部壕は、沖縄戦において大日本帝国海軍の司令部として使用された防空壕です。
戦後は旧海軍司令部壕としてその一部が一般に公開され、周辺は海軍壕公園として整備されています。
旧海軍司令部壕ビジターセンターに行きここから防空壕に入ります。
入場料は440円でした。
防空壕に行く前にまず資料室に行きました。
写真パネルや当時使用していた日用品、写真などが展示されていました。
当時の様子が生々しく伝わってきます。
一度は行ってもらいたい場所。
その際は、戦時中はもっと足場が悪く、暗く湿って人も多く、汗や土や他のニオイもして…という想像をしながら歩いたほうがいいと思う。
何も考えないとアップダウンのある散歩で終わってしまうかも。
戦争しちゃいけない本当に悲しいきちんとあったこと分かりやすく展示されています。
小学生以下の子供にはしんどいかもしれません。
地下は重い空気が流れてます。
9月まで17時30分まで入館できます。
何度も沖縄には行っていましたが、この場所のこと自体を知らず…もっと早く訪問すればよかったと後悔するほど有意義な時間を過ごしました。
中学生の息子と行ったのですが、息子にとって非常に意味のある体験ができました。
かつて人々が隠れ、自決を強いられた防空壕の中に入ることができます。
資料館も、小さいですが心に迫るものがあります。
戦争の経験は良くも悪くも忘れられていくものですが、少しでも悲劇に触れ、考え、平和を維持することの大切さを考えるきっかけになる施設だと思います。
住民が避難したガマとは違う面から沖縄戦の悲惨さを考えるところ。
今はキレイなトンネルだが、自決の手榴弾痕などなまなましい。
ビジターセンターで当時の戦況など、じっくり学んでから壕に入るとよい。
ゆいレールの小禄駅から、タクシー初乗り料金で行ける。
複数でいくなら便利かも。
とても勉強になる施設です。
当時の状況がほんの少しですがイメージできた気がします。
手紙などが展示されており、当時の人たちがどのような思いで戦争という時代を生きていたのかも垣間見れ、考えさせられました。
旧日本海軍の地下基地跡。
現在の那覇空港は、太平洋戦争当時は日本軍の小禄飛行場であった。
そのため、この近辺はアメリカ軍の猛攻を受けた。
アメリカ軍を迎え撃つ海軍司令部も地下に潜らざるを得ず、この地下壕が掘られた。
安全のため、一部改修されているものの、当時のままの状態の壁等も多数残されており、手榴弾で自爆した跡が残る壁面など、戦争の悲惨さを今に伝える。
当時の遺物や写真も多数展示されている。
特に、有名な大田実中将の「沖縄県民かく戦えり」の電文は大きく紹介されており、当時の沖縄が老若男女、軍人・民間人の別を問わず戦い、命を落としていった様子が目に浮かびます。
また、中将の「沖縄県民への後世に渡る格別のご厚情」を願った一文に中将の人柄が偲ばれる。
平和を祈る地球の住民として、一度は訪れて頂きたい。
沖縄県民かく戦へり県民に対し後世特別のご高配を賜わらんことを、で有名な太田実海軍少将の指令部跡が保存されている。
県民の三人に一人が亡くなられ、米軍の本土上陸の捨て石とされた当時の兵士がおかれた状況が良くわかります。
ガイドブックの扱いはどこも小さいですが是非訪れて下さい。
海洋公園、水族館よりも、此処に行くべきだと思う。
沖縄県民は被害者ではない立派な日本人として誇るべき。
評価をつけるような場所ではありませんが、沖縄に行ったら一度は絶対に行ってほしい場所。
資料や手紙などは状態が良く、沖縄戦の歴史をより知ることが出来ました。
あらかじめネットで写真は見ていましたが、実際壕に入って足が震えました。
ツルハシで掘られた跡や手榴弾で自決された跡などそのまま残っていて、当時の状況が痛いほど伝わります。
何故だか、気持ち的に写真を撮ることが出来ませんでした。
大事にこの場所を守られている方々に感謝致します。
ただ、壕の壁に爪かペンのようなもので書かれた落書きを一部見つけ、とても心が痛かったです。
乗るべき船、飛行機を失った日本海軍は、陸上でも戦いました。
上海、フィリピンのマニラ、サイパン、硫黄島そしてここ沖縄は陸に降りた海軍が死闘を繰り広げた戦場です。
沖縄に訪れる旅行者ならぜひ訪れるべきです。
そして自分の目でここにある展示物を見るべきです。
太田司令官が確かに居たこの場所と太田少将旗(将官が座乗する艦船に掲げる将旗)を。
戦後67年たってやっと米軍より遺族に返還されたこの少将旗は地下壕展示室に収蔵されています。
その少将旗が園内戦跡ゾーンにある海軍戦没者慰霊塔のすぐそばにある艦上マストにはためいたのは69年ぶりであった。
撮影は大阪・関西テレビ「ニュースアンカー」取材班と青山繁晴(現参議員議員)ら。
是非みて 体感してもらいたい。
海軍の司令部があった場所。
豪なのです。
その名のとうり凄すぎです。
人ノチカラであの見事な地下に司令部ができるなんて!まわりが四方八方みわたせ 計算された見事な海軍の司令部海軍豪 各国から見学に来て あまりの凄さに驚くのです。
名前 |
旧海軍司令部壕 |
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ジャンル |
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電話番号 |
098-850-4055 |
住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 8:30~17:00 |
関連サイト | |
評価 |
4.3 |
【沖縄戦の戦跡地巡り&慰霊!豊見城にある海軍司令部壕】先日、5年1か月ぶりに再訪した豊見城市と那覇市の市境に位置する海軍司令部壕。
日本で唯一の陸上線である沖縄戦で大日本帝国海軍の司令部として使用された防空壕。
昭和19年、先の大戦において絶対国防圏を守る上での最重要拠点であるサイパンやグアムなどのマリアナ諸島やパラオ戦線やフィリピン戦線での敗北でそれらを失い、敗色が強まってきました。
戦線が南西諸島付近まで後退したため最前線となった沖縄の軍備が強化されることになりましたが、沖縄における重要な軍事拠点の一つであった小禄飛行場(現在の那覇空港)を守るための防空壕を建設することになりました。
昭和19年8月10日に着工されましたが、実際には十・十空襲以降に始められ同年12月に完成しました。
壕はかなり深さがあり、枝分かれした全長約450mの坑道といくつかの部屋からなり、砲撃に耐えられるよう重要な部屋はコンクリートや漆喰で補強されています。
部屋は作戦室、幕僚室、司令官室、暗号室、医療室、下士官室、兵員室、発電室があり広大な壕です。
昭和20年1月20日から大田実海軍中将が沖縄方面根拠地隊司令官として赴任し現地の指揮を執ることになりました。
アメリカ軍による本格的な攻撃は3月23日頃から始まりましたが、3月31日には那覇市の北西沖約10キロメートルに浮かぶ神山島に上陸し、4月に入ると島に設置された砲台や海上艦船からの攻撃も始まりました。
6月4日午前5時、アメリカ軍は小禄飛行場の北部に上陸し司令部壕のある那覇市南西部を包囲。
6月11日朝、司令部壕に米軍の集中攻撃が加えられ、同日夜には司令部壕からの最後の報告として海軍根拠地隊が玉砕したとの電報が発せられました。
6月13日に大田司令官は自決を遂げ小禄地区における組織的な戦闘は終結し、戦線は南部に。
司令官室には壁面に大田司令官の愛唱歌「大君の御はたのもとに・・・」の墨書が残されています。
戦後の調査で壕内からは大田司令官をはじめとして800名以上の遺骨が収集された、昭和33年には更に1500名以上の遺骨が収集され、沖縄海友会によって海軍慰霊之塔が建立されました。
沖縄は綺麗なビーチが多く見所が多いですが先の大戦では日本唯一の陸上戦がおこなわれ、約20万人の方が犠牲になった場所です。
沖縄を訪れるのあればこういった戦跡や慰霊をしていただきたいと思います。
※NIKONのフラッグシップミラーレスカメラZ9で撮影。