桜の名所として有名な城址公園です。
本丸跡などは学校となっていて、遺構として残るのは一部のみだが、堀や土塁、馬出などは良く残っている。
公園になっていますが、土塁や堀は比較的明瞭に残っています。
特に土塁は城外の道路から見上げるとなかなかの迫力です。
馬出も補修されてはいますがはっきり型は分かります。
駐車場はトイレ横に2台分程度のスペースがあるのみ。
隣接したきちんとした駐車場は、あくまで児玉中学校来校者用なのでご注意を。
山内上杉氏や後北条氏の支配を受けたとされる城。
元々は広かったものの現在は南曲輪の部分が残されています。
武者走りが伴うとみられる高い土塁がひときわ目を引くほか、水堀の一部も残っています。
住宅地の中で土塁、空堀が良く残ってます!
(埼玉県指定史跡)今は町のお花見スポットで、自然に触れられる公園ですが、ここ雉岡城址の辺りは、児玉郡八幡山の独立丘陵であり、かつてこの城は八幡山城と呼ばれていたこともあるそうです。
資料によると、・15世紀末から16世紀中頃までは、上杉氏家臣夏目氏が城主。
・16世紀中頃から末までは、後北条氏家臣横地氏(城代)。
・1590年から1601年までは、松平氏。
松平氏が三河国吉田に転封となり、以後、当城も廃城となった。
とあります。
ここは高校に隣接し、綺麗なトイレも有り公園として小さな子供と来るのが良いですね。
ベンチや東屋もあるので休憩も取れます。
また、堀や土塁もとても良く見応えも有ります。
土塁及び空堀がスゴい‼️ただもう少し手入れをしてほしい。
城趾の案内地図を見ながら、ここが空堀、城の周りを水堀。
城の正面を東に向けて、北条や武田方の方角を守りの硬い、堀を向けたのかな~とか考えていると、とても楽しかった。
以外にも堀や土塁が残っており、見応えが有ります。
山城では無いので楽チンに見れますが、案内板が少ないので分かりにくい。
全体図を写メして、見ながら歩いた方が良いです。
遺構が色々ある城跡です。
南東側は公園で北側と西側は学校がです。
水堀があります。
埼玉県本庄市に残る城跡。
城域の半分以上は中学校などの敷地に変わり跡形も残っていませんが、城の一部は公園化されて保存されています。
土塁の大きさ、堀の深さはなかなか見られない規模でこの城の重要性が窺われます。
この場所は鎌倉街道を押さえる要衝ということでこれだけの規模になったようです。
部分的に角馬出の遺構も残り、北条流築城術の一端を見ることが出来ます。
学校になった事で残ってる城の敷地が減ってますが、土塁や堀がわかりやすく残っているので歴史や城について案内板を見ながら楽しめます。
案内板を読む程度で何もない。
休憩所やトイレはありました。
平日のんびり散歩するには良いです程よく開けているので、1人でも怖くないです土塁の規模が近隣の鉢形城址より大きい??数百年前のお城等を想像しながら、ゆっくり過ごせます。
雉岡城跡山内上杉家によって児玉郡八幡山の独立丘陵に築かれた城ではあるが、鎌倉時代には武士が居住していたと考えられており、城としての形態に整備されたのが室町時代末期(戦国時代初期)とされる(15世紀後半に築かれたと言う事になる)。
桜の隠れたスポットです。
遺構は素晴らしいです。
整備されてて見学しやすい。
室町時代に享徳の乱が起きた際にかつて武士の館であったところに関東管領上杉氏が本拠として築城したが、のちに上州平井城に移ったため五十子陣への兵站補給のための基地として活用されるようになったとの歴史がある。
上杉氏が上州へ後退後は後北条氏により改修・拡張され、現在のような技巧的縄張りを持つ城へと変化を遂げ、北条氏邦の拠った鉢形城の支城として機能するようになった。
戦乱の時代を経て、最前線であった名残が見受けられる見事な城跡です。
小山川沿いの児玉千本桜と共に、桜の名所として有名な城址公園です。
地元の人は「城山(しろやま)公園」と呼んでいます。
以前より遊具や飼鳥が少なくなりました。
濠跡の谷に「夜泣き石」という伝説がある石があります。
名前 |
雉岡城跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0495-25-1186 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.6 |
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2023/03/28曇り満開の桜に癒されました。
平日の昼間は地元の方々がちらほら訪れている様でした。