蔵の街を散策中に発見!
蔵の街を散策中に発見!細工が凄い。
立派な文学碑です。
#栃木市 #栃木瓦 #吉屋信子 #巴波川栃木市街を散策していると、巴🌀波🌊(うずま)川の河畔に出て、『吉屋信子の文学碑』が、あったのですが、心に飛び込んで来たのは、併設されていた、栃木瓦の鬼👹瓦でした。
※参考に。
吉屋信子記念館が、鎌倉市にある様です。
栃木瓦について栃木市北西部の箱森、野中、泉川、新井町などで生産している「栃木瓦」の歴史は、江戸時代末期にさかのぼる。
瓦に適した豊富な粘土や、燃料用の材木を産出する山々を後背地とした互製造は、大消費地の関東地方をひかえていたこともあり、隆盛を極めた。
瓦には、数多くの種類がある。
このうち、鬼👹瓦は、住いを守る「守護神」であり、洗練されたなかにも、勇社、華麗さを誇るものである。
中央の鬼瓦は、大棟に使用する鬼面付き鬼瓦であり、左右は、菊水化粧鬼瓦、また左手前はビン張り菊水化粧鬼瓦で、主に玄関に用いられる。
@ 巴波川。
栃木市は映画のロケ地として大変有名です。
此処の前の巴波川沿いの道路に「北陸中央バスのバス停」が設置されて2020年9月13日から15日迄、映画のロケが行われました。
生誕110年記念碑がひっそりとあります。
特段の補足的説明が何もないので気付く人はいないと思います。
いくらかの費用がかかっているだろうに、もったいないです。
吉屋 信子は、1920年代から1970年代前半にかけて活躍した、日本の小説家である。
新潟県新潟市にあった新潟県庁官舎で生まれた。
栃木県で少女時代を過ごす。
父・雄一は下都賀郡長を務めた人物であるが、頑固な男尊女卑的考え方を持っており、信子は内心反発を感じていた。
真岡から栃木市に移住、栃木高等女学校(現栃木県立栃木女子高等学校)に入学した際、新渡戸稲造の「良妻賢母となるよりも、まず一人のよい人間とならなければ困る。
教育とはまずよき人間になるために学ぶことです。
」という演説に感銘を受け、そのころから少女雑誌に短歌や物語の投稿をはじめる。
日光小学校の代用教員になるが、文学への道を捨てがたく、卒業後に上京して作家を志し、1916年(大正5年)から『少女画報』誌に連載した『花物語』で人気作家となる[1]。
その後、『大阪朝日新聞』の懸賞小説に当選した『地の果まで』で小説家としてデビュー、徳田秋声らの知遇を得る。
名前 |
吉屋信子の文学碑 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
3.6 |
ひっそりしてました。
なぜ栃木瓦の展示もあるのかは不明。