新田率いる倒幕軍と幕府軍がここで決戦。
ずっと前からいつか行こうと思っていた場所。
新田義貞公格好良すぎた。
ここ分倍河原での勝利が、幕府軍を完全に守勢にまわらせた。
鎌倉幕府末期の倒幕において分倍河原の戦いで活躍した新田義貞の銅像です。
鎌倉方面を向いてるので駅から降りて見えるのは後ろ側です。
南武線に乗ったままだと背中しか見えません。
新田公、分倍河原駅のバスターミナルの真ん中に立っています。
たいそう立派です。
皇居外苑の楠木正成像を思い出しました。
鎌倉幕府滅亡に大きな役割を果たした分倍河原の攻防。
府中歴史博物館に行くと理解が深まりそうです。
JR南武線と京王線の乗り換え駅である分倍河原駅。
改札を出て、右手の陸橋を渡り、南口ロータリーのど真ん中に、新田義貞公の銅像があります。
遥か昔に学んだ日本史や、NHK大河ドラマ「太平記」で覚えがあり、鎌倉幕府を滅亡させた武将との認識はあるものの、最終的には室町幕府を興した足利尊氏に隠れたイメージの新田義貞公。
倒幕のための貴重な戦となる、分倍河原の戦い!この地で行われたのですね!分倍河原の戦いとは?鎌倉時代後期の元弘(げんこう)3年(1333年)5月、新田義貞は、上野国生品(こうずけのくにいくしな)神社(群馬県)にて鎌倉幕府を討幕すべく兵を挙げました。
幕府軍を打ち破りながら南下した新田軍を、北条泰家率いる幕府軍が、分倍河原の地で迎え撃ちます。
一時、幕府軍は新田軍を追い詰めるものの、最終的に新田軍が勝利をおさめます。
そして、鎌倉幕府が滅亡へと向かっていくのです。
(府中市ホームページより)案内板より抜粋します。
この像は、新田義貞と北条泰家の軍勢が鎌倉幕府の興亡をかけて火花を散らした分倍河原合戦を題材に、武士の情熱と夢をモチーフとして制作したものである。
元弘3年(1333)5月8日、上州生品神社の社前で鎌倉倒幕の旗を上げた新田義貞は、越後・甲斐・信濃の同族軍等を糾合、翌9日には利根川を渡って武蔵国へ入り、千寿王(後の足利義詮)と合流し一路鎌倉を目指して南下した。
一方、幕府軍は入間川で新田軍を阻止するため北上、同月11日、両軍は小手指原で遭遇し合戦となった。
合戦の勝敗は容易に決しないまま12日の久米川の合戦につづき新田軍有利の中で、幕府軍は陣立てのため急ぎ府中の分倍河原まで退いた。
同月15日未明、新田軍は多摩川突破を目指して武蔵国府中を攻め分倍河原において大いに戦ったが、泰家率いる幕府軍の逆襲にあって大敗を喫し、堀兼まで敗走した。
この時、新田軍の手によって武蔵国分寺の伽藍は灰燼に帰してしまったといわれている。
その夜、堀兼まで後退した焦燥の義貞のもとに相模の三浦義勝らが相模の国人衆を引き連れて参陣した。
幕府の本拠地である相模の国人衆の加勢に意を強くした義貞は、翌16日の未明に怒涛の如く分倍河原を急襲、前日の勝利におごり油断していた幕府軍は、武具を整える間もなく総崩れとなり、鎌倉の最後の防衛線である多摩川は一気に破られ分倍河原合戦は新田軍の大勝利に終わった。
多摩川を越えて鎌倉に進撃した新田軍は、鎌倉で激しい市街戦を展開し、終に140年余り続いた鎌倉幕府を滅亡させたのである。
こうした史実を通して市民の郷土史への理解を深めるとともに、これを後世に伝えるため、日本の中世史上重要な意義を持つ分倍河原合戦ゆかりのモニュメントを制作し、この地に設置するものである。
制作は、我が国彫刻界の重鎭で文化功労者・日本芸術院会員の富永直樹先生、題字は、府中市長吉野和男の揮毫による。
この「新田義貞公之像」が永くふるさと府中の歴史を伝え、市民の心に生きつづけることを願うものである。
上州新田庄出身(群馬県太田市)のヒーロー新田義貞公(源義貞)の像、上州寺尾城や、反町城ありますが、生田神社から、鎌倉幕府討伐に、向かった、群馬のヒーローです。
新田義貞公の群馬県太田市を巡りってるので、良かったです😆
分倍河原駅出て、バス乗り場の目の前に有ります❗バスの待ち時間には良いが、説明文等無く寂しい感じがします。
駅から出てスーパーへ行くまでの間に通る見慣れた新田義貞像見慣れた光景なだけにわざわざ写真を撮ることはなかったけれども雪の中の義貞像は滅多にお目にかかることはできなかったので記念に撮影。
鎌倉幕府を滅ばした新田義貞公の勇ましい銅像です。
新田義貞は、1333年(元弘3年)群馬県新田で一族郎党150人で倒幕の軍を旗上げし、鎌倉目指し進軍を開始しました。
倒幕軍は瞬く間に膨れ上がり、あの難攻不落の大要塞都市鎌倉を、僅か15日で攻め落としたと、太平記は伝えています。
孫子の兵法を彷彿とさせる、凄まじい電撃戦です。
この新田義貞像は、その間の事情を凝縮し、緊迫感があり迫力満点です。
1333年、鎌倉(北条)時代の終わりを告げた歴史的合戦場⋅分倍河原での、総大将⋅新田義貞公(当時32才)の気迫溢れる武者像です。
その顔は鎌倉を向いて何かを叫んでいるようです。
(像製作者:文化勲章受章者の富永直樹氏)
1333年、ここを舞台に幕府軍と戦った武将。
勇猛だったそうな…。
新田義貞というと、鎌倉末期〜南北朝時代では評価の分かれる人物。
初めてだと分倍河原駅の構造がちょっと分かりにくく、銅像も分かりにくい場所に有る。
駅前とは言いつつ、改札から少し歩いたロータリーに像は建っている。
駅にお尻を向けているのは、攻めるべき幕府のある鎌倉を向いているからだそうである。
新田率いる倒幕軍と幕府軍がここで決戦。
多摩川はこのあたりを流れており、当時は本当に分倍の河原だったらしい。
段丘の際にあるJRのホームは一段低い位置にある。
南口ロータリーの中心に建っています。
分倍河原駅のロータリーにある騎馬像。
何故ここに新田義貞の像があるかというと鎌倉攻めの一つ「分倍河原の戦い」があった所だからである。
近くには古戦場跡もある。
興味深いことに騎馬像が向いている方角は古戦場跡で、更にその先には攻め滅ぼすべき鎌倉がある。
皇居前の楠木正成の像に良く似ています。
同じ人が作ったのかな?新田義貞は関西の楠木正成とも連携しましたからね。
700m離れたところに分倍河原古戦場の碑があります。
It closely resembles the statue of Masashigei Kusunoki in front of the Imperial Palace.I guess the same person made it?There is a monument of Bubaigahara Battlefield at a distance of 700 m.
思ったよりとても大きく、迫力があって素晴らしい。
1333年、鎌倉幕府を倒幕すべく上野国から馬に乗って南下して来た新田義貞の勢いをそのまま切り取ったかのような、勇ましい銅像です。
像は鎌倉幕府の方向を向いており、馬の勢いは今にも空を駆けるのではないかと思えるほどです。
文化勲章受章者の富永直樹が作成したものです。
倒幕の志に燃え南下する新田義貞に対し、鎌倉幕府は北条泰家を中心に軍を編成し迎え討ちます。
戦いは熾烈を極め、次第次第に幕府軍が優勢になって新田義貞は本陣からの撤退を余儀なくされます。
そのまま敗走すれば歴史が変わっていたかもしれません。
しかし新田義貞は態勢を立て直し、再び幕府軍に襲い掛かって猛烈な攻撃を仕掛け、ついに戦いに勝利します。
かなりカッコいい銅像です!分倍河原の戦いは、鎌倉時代後期1333年5月15日・5月16日に、武蔵国多摩川河畔の分倍河原において、北条泰家率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間で行われた合戦だそうです。
名前 |
新田義貞公之像 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
4.1 |
地元民なので風景に溶け込んでますが、よくよく見ると実は素晴らしい銅像だと分かります。