地蔵堂内の左手におかっぱ頭のセーラー服姿の童女像が...
駒込妙義坂子育地蔵尊 / / .
地蔵堂内の左手におかっぱ頭のセーラー服姿の童女像があります。
片手に宝珠を持ち、もう一人は場材を持って手をつないでいる供養神です。
これは昭和八年にこの近くで交通事故にあって亡くなった十一歳の仲良しの少女を供養するために建てられたもので、以後子育地蔵尊とともに地域の安全を見守り続けています。
元々は70坪あったそうだが東京大空襲で焼失したとのこと。
ここにおかっぱ頭の2体のお地蔵さんがありますが仲の良かった11歳の少女が交通事故でなくなり供養のために建立されたとのことです。
おかっぱ頭のお地蔵様にこんな由来があるとはね。
たとえ小さくなろうとも、地元の方から愛されて祀られるこれが大切なんですね。
この地蔵尊は、日光御成道(本郷通り)の妙義坂の途中に祀られています。
地蔵尊の由来は古文書に次のように記されています。
1668年に駒込の今井家が子孫繁栄を祈願して地蔵尊とお堂を建立し、以来地元有志によって毎月念仏供養が営まれたことがわかります。
戦前は70坪ほどの境内に多くの供養石像が並列し、節分には豆まきが盛大に行われ、24日の縁日には夜店が立ち並び、大変賑わいました。
1945年4月に大空襲でお堂が焼失し、戦後ここに駒込診療所が開設し、その一角に祀られました。
現在は城官寺(北区上中里)の境外地蔵尊として祀られています。
元々はもっと広い土地(七十坪)にあり、たくさんの地蔵尊が並んでいたそう。
また、夜店が並ぶほどだったが、東京大空襲によって焼けてしまい、紆余曲折を経て、このような大きさになってしまったそうである。
この地蔵尊は、日光御成道(本郷通り)の妙義坂の途中に祀られています。
寛文8年(1668)に駒込の今井家が子孫繁栄を祈願して地蔵尊とお堂を建立し、以来地元有志によって毎月念仏供養が営まれたことがわかります。
戦前は70坪ほどの境内に多くの供養石像が並列し、節分には豆まきが盛大に行われ、24日の縁日には夜店が立ち並び、大変賑わいました。
昭和20年(1945)4月に大空襲でお堂が焼失し、戦後ここに駒込診療所が開設し、その一角に祀られました。
現在は城官寺(北区上中里)の境外地蔵尊として祀られています。
平成30年7月18日参拝なんとも悲しい・・、その2体重なるお地蔵さん。
それにしてもよく整備されたお地蔵様たちはきっとこのことに感謝していることでしょう。
地元愛を感じました。
幼くして、命を失った二人の少女の地蔵尊です🙇
道端のよく手入れされたお地蔵。
道端のよく手入れされたお地蔵。
名前 |
駒込妙義坂子育地蔵尊 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.1 |
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駒込妙義坂子育地蔵尊所在地 豊島区駒込二六この地蔵尊は、日光御成道(本郷通り)の妙義坂の途中に祀られています。
地蔵尊の由来は古文書に次のように記されています。
「寛文八戌申年十月、旧邸/南丘陵地へ間口二間、奥行三間ノ堂字ヲ建設シ、地蔵尊像(石造丈二尺三寸) 一体ヲ造立、同堂二安置シ子孫繁栄ヲ誓願ス 爾来有志/老若男女、毎月此堂二集シ念仏供養ヲ営ム 此地ハ今井家始祖ノ墳墓/旧跡地卜云傳 又堂宇ノ西拾間余地小丘アリテ三ッ塚ト称スル塚アリ是ハ南北朝/官兵戦死者及び新田、今井ノ両家ノ諸士戦死ヲ合祀セシ地卜云傳」これによれば、寛文八年(一六六八)に駒込の今井家が子孫繁栄を祈願して地蔵尊とお堂を建立し、以来地元有志によって毎月念仏供養が営まれたことがわかります。
戦前は七十坪ほどの境内に多くの供養石像が並列し、節分には豆まきが盛大に行われ、二十四日の縁日には夜店が立ち並び、大変賑わいました。
昭和二十年四月に大空襲でお堂が焼失し、戦後ここに駒込診療所が開設し、その一角に祀られました。
現在は城官寺(北区上中里)の境外地蔵尊として祀られています。
地蔵堂内に、おかっぱ頭のセーラー服姿の童女が片手に宝珠を持ち、もう一人は錫杖を持って手をつないでいる供養碑があります。
これは昭和八年にこの近くで交通事故にあって亡くなった十一歳の仲良しの少女を供養するために建てられたもので、以後子育地蔵尊とともに地域の安全を見守り続けています。
平成十八年四月、駒込駅前通り商店街振興組合創立五十周年および駒込二丁目親和会戦後六十周年の記念事業として、新地蔵堂の建立と境内改修が行なわれました。
平成十八年(二〇〇六)四月豊島区教育委員会。