明治17年のドイツ留学まで住まわれていたそうです。
森鴎外旧居・橘井堂森医院跡 / / .
森鴎外が住んでいた跡地だそうで、明治17年のドイツ留学まで住まわれていたそうです。
橘井堂とは鴎外の父静夫が開業していた医院で、父静夫は鴎外が別居してからもこの地で開業を続け、明治25年本郷団子坂の新居·観潮楼に移転するまで、千住の名医として親しまれていたそうです。
鴎外は千住での様子を小説『カズイスチカ』に描いているそうです📖🖋️
森鴎外の旧居。
石碑と原稿用紙に見立てた説明板があります。
3枚組になっていますが、一応全部読めるようになっています。
森鴎外の石碑が再び設置されました。
看板がありましたから間違いないと思います。
看板が目立つと良いですね。
今はマンション建設で隠れています。
分かりにくい場所です。
高層建築中で、この遺跡はどこなの?という感じです。
森鴎外の旧居跡。
まだマンション建設中です。
森鴎外は、今の島根県津和野の生まれの人で本名は(森林太郎)。
明治の始めに廃藩置県があった折、医者であった父親と向島小梅村に移り住んだ。
そこから、ドイツ語を習いに私塾に通う為に、親戚であった西周(にしあまね)の家にいたりしたこともあるらしい。
翌年、津和野の家族も上京。
同年、鴎外は第一大学区医学校(東大医学部の前身)に入学。
年をごまかしての入学であったが、その時僅か12才だった。
父親は南足立郡の医者になり、後に北千住で橘井堂を開業。
鴎外も4年間北千住に住んだことがあり、医者としての手伝いもしていたらしい。
ペンネームの鴎外とは、色々諸説があるが、(今の白髭橋辺りに鴎の渡しがあり、その外ということで千住のことを表している)と案内板には記載されていた。
私の記憶では、白髭橋辺りは(橋場の渡し)があり、風光明媚で特に(都鳥)で有名な場所。
伊勢物語の在原業平の歌にも出てくる所。
都鳥とは、(ユリカモメ)のこと。
そうすると、鴎外の(鴎)はユリカモメのことなのかなと思ったりしてみた。
ひょっとしたら、最初に住んだ向島小梅村は隅田川の向こうにあり、鴎のいる場所の外側とも考えられそこから名前を付けた可能性もあるのかなと思ったり。
いずれにせよ、鴎外というペンネームはどうやらこの辺りの隅田川から生まれたようだ。
今は、鴎外が住んだ建物も既になく、建築工事中の外壁に鴎外についての案内板が場違い気味に掛かっていた。
現在高層マンション建築中。
今は、工事現場の壁に案内ポスターが張ってあるだけです。
建設工事終了後、”千住の鴎外碑”も設置されるだとか・・・。
楽しみに待ちましょう!!
名前 |
森鴎外旧居・橘井堂森医院跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト |
https://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/chiikibunka/hakubutsukan/manabu-moriogai.html |
評価 |
2.9 |
もはや面影はなし。
タワーマンションの麓です。