石碑と説明の看板のみです。
元禄八年(1695年)より明治初頭までここに五百羅漢寺がありました。
歌川広重の「名所江戸百景」に「五百羅漢さざえ堂」として描かれ、また葛飾北斎は「富嶽三十六景 五百らかん寺さざゐどう」を描き、多くの参詣客を集める江戸名所のひとつだったそうです。
現在は目黒に移転しており、跡碑と基礎石があるのみです。
現在、交差点向かい側にある「羅漢寺」は「五百羅漢寺」とは関係ない別のお寺さんです。
五百羅漢は、元禄8年(1695)に松雲元慶禅師により創建された黄檗宗の寺院です。
禅師は貞享年間(1684~1688)に江戸へ出て、元禄4年(1691)から木造羅漢像を彫り始めました。
元禄8年(1695)、将軍徳川綱吉から天恩山五百羅漢寺の寺号と6千坪余の寺地を賜り、ここに自ら彫像した羅漢像など536体を安置しました。
当寺の三匝堂は、廊下がらせん状に3階まで続いており、その様子がサザエのようであることから、または三匝とサザエの発音が似ていることから「さざえ堂」と呼ばれ、多くの参詣客を集める江戸名所のひとつでした。
区内には、五百羅漢までの道筋を示す道標が2基現存しています。
羅漢寺は明治20年(1887)本所緑町(現墨田区)へ移り、さらに明治42年(1909)現在地(目黒区)へ移転しました。
ここに残る石標柱は、五百羅漢跡を示すために昭和33年(1958)に建てられたものです。
平成20年(2008)3月 江東区教育委員会。
テーマパークというとデズニーランドに代表される施設が日本各地にあるが、江戸時代にもテーマパークと呼んでもおかしくないところがあった。
当時江戸本所(現在の墨田区大島)にあった五百羅漢寺である。
写真(江戸時代の観光案内書 江戸名所図会)本堂の両脇からの回廊に500体もの羅漢の像が安置されていた。
羅漢像は一体一体表情が違い、丁寧の彫られていため江戸庶民の大変な人気を呼んだ。
あまりにも見物客が多かったので塀で仕切って一方通行にしてさばいていた。
(図絵)また図会の左下にある「さざえ堂」は当時では珍しい3階建ての高層建築であり、そこから眺める風景はさしずめ現代のスカイツリーのようで江戸っ子が押し寄せた。
さざえ堂から見る富士は絶景だったようだ。
北斎描く、冨獄三十六景「五百らかん寺 さざゐ堂」(浮世絵)あの葛飾北斎が冨獄三十六景に描いていることは相当な人気の場所だったに違いない。
そのような江戸のテーマパークも明治維新で徳川家の庇護を失ったうえ、追い打ちをかけるように明治政府からの廃仏毀釈により羅漢像の廃棄が行われ、危うく羅漢像の金箔ほしさに燃やされるところでした。
その後、寺は二度に渡り強制撤去され、羅漢像は536体が305体に減り、現在の目黒の地に落ち着いたわけですが、さらに苦難が待ち受けておりました。
(パソコン画)大正6年の大暴風雨によって本堂は荒れ果て、大正12年の関東大震災で壊滅的な損害を被りました。
昭和56年に現在のように再建するまで雨露をやっとしのいで羅漢像を守っていたとのことです。
現在、目黒の羅漢寺の山門。
正面山門の入口には五百羅漢の一人「不退法尊者」の銅像が飾られています。
(パソコン画)展示されている五百羅漢像の一部。
(写真)訪れた時は観覧者は私以外にだれもおらず羅漢像に相対していると不思議な雰囲気でした。
また、かっては江戸庶民が列をなしてこの像群をみに来ていたことを考えるとこの静寂さは歴史の隔絶さを感じさせてくれます。
柱の基礎石を残して、移設されているそうです。
石碑と説明の看板のみです。
説明も興味深く読ませて頂きましたが実際の五百羅漢も見たかったなぁ。
と強く思いました。
(^-^)/
五百羅漢の寺院跡(御百楽漢、1909年から目黒)。
寺には、江戸時代に主要な観光名所となった木で彫られた500の実物大の仏教聖人が収容されていました。
寺院は大バク禅に属し、500を超える像の彫刻家は、正雲玄慶(1648–1710)でした。
(原文)Former Site of the Temple of Five Hundred Rakan (Gohyaku Rakanji, since 1909 in Meguro). The temple housed five hundred live sized Buddhist saints, carved from wood, which became a major tourist attraction during the Edo period. The temple belonged to Ōbaku Zen and the sculptor of the over five hundred statues was Shōun Genkei (1648–1710).
ベリーグッド。
碑と説明板があり、下のように書かれてました。
五百羅漢は、元禄八年(1695)に松雲元慶禅師(しょううんげんけいぜんし)により創建された黄檗宗の寺院です。
禅師は貞享年間(1684~1688)に江戸へ出て、元禄4年(1691)から木造羅漢像を彫り始めました。
元禄8年(1695)、将軍徳川綱吉から天恩山五百羅漢寺(てんおんさんごひゃくあらかんじ)の寺号と6千坪余の寺地を賜り、ここに自ら彫像した羅漢像など536体を安置しました。
当寺の三匝堂(さんそうどう)は、廊下がらせん状に3階まで続いており、その様子がサザエのようであることから、または三匝とサザエの発音が似ていることから「さざえ堂」と呼ばれ、多くの参詣客を集める江戸名所のひとつでした。
区内には、五百羅漢までの道筋を示す道標が2基現存しています。
羅漢寺は明治二十年(1887)本所緑町(現墨田区)へ移り、さらに明治四十二年(1909)現在地(目黒区)へ移転しました。
ここに残る石標柱は、五百羅漢跡を示すために昭和三十三年(1958)に建てられたものです。
名前 |
五百羅漢跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.6 |
駅を出てエレベーターで地上にあがるとありました。