説明丁寧場所柄良く残せたと思う所。
大日如来の化身お竹さんの井戸(中央区・日本橋)小伝馬町の牢獄跡を見学したあと、江戸橋に向かうため昭和通りを歩いていると何か強い力で腕を引っ張られるような気がしたので路地へ入っていくと・・・ビルと崩れかけた家の狭い間になんか史跡らしきものがみえた。
(写真)「於竹大日如来井戸跡」とある。
(写真)碑文によると寛永17年この地にあった有力者の馬込家にお竹さんは18歳で召使として奉公にあがった。
出羽三山の行者がお告げを受け、江戸のお竹さんを探し出したところ後光がさしており大日如来の化身に違いないと判断してお堂をたてて住まわせた。
このことにより江戸中で評判となり延宝8年58歳でこの世を去ったときには時の五代将軍綱吉公の御母堂桂昌院が歌を詠んで贈った。
「ありがたや 光とともに行く末は花のうてなに於竹大日」馬込家の土地は現在小津和紙の所有となっており、史跡の隣のビルが小津和紙の本店だそうだ。
どうやらお竹さんは召使として主にここの井戸で働いていたようだ。
大変気になったので帰宅し詳しく調べてみることにした。
於竹さんの墓は北区善徳寺にあるそうなので訪れてみることにした。
ウ~ン!歴史あるようですが、わざわざ来る様なトコロじゃないかな。
江戸時代初期、お竹さんという、いまの山形出身の若い女中さんが、「貧しい人に施しを惜しまない、ものすごく親切な人だ」と評判になり、しまいには羽黒山の行者という二人の坊さんが主家を訪れ、「お竹さんは大日如来の化身である」と告げたので、江戸の人々は彼女を崇拝するようになった……という話は、どこかで読んで頭の中にあったが、そのお竹さんの居所が、こういう形で残っているとは知らなかった。
大日如来は、密教の教理においては、宇宙の真理そのもの、宇宙そのものとすら言えるような中心的存在であって、神仏習合的な考え方の中では天照大神とも同一視される。
お竹さんは、おそらくきわめて性格のいい女性だったのだろうが、その一点が強調されて、一足飛びに大日如来に擬せられ、崇拝されて、どんな気持ちだったのであろうか。
また、彼女を祀り上げた坊さんは、「於竹大日堂」を建てたり、江戸府内で何度か出開帳を行ったりしており、どうも胡散臭さも漂う。
ともあれ、お散歩ポイントとしては面白いので、べったら市などでお近くに来たらぜひ。
地図を見ながらであれば、すぐ見つけられる。
碑文には下のように書かれてます。
於竹大日如来は、寛永17年(18歳の時)山形県庄内より出て、当時の江戸大伝馬町馬込家の召使いとなる。
その行いは何事にも誠実親切で、一粒の米、一切れの野菜も決して粗末にせず貧困者施した。
そのため於竹さんのいる勝手元からはいつも後光がさしていたという。
出羽の国の行春乗蓮と玄良坊が馬込家をおとづれ「於竹さんは羽黒山のおつげによると大日如来の化身である。
」とつげた。
主人は驚き勝手仕事をやめさせ、持仏堂を造り、その後念仏三昧の道に入る。
これが江戸市中に拡がり、於竹さんを拝もうと来る人数知れずと言う。
於竹さんの詠んだ歌に『 手と足は いそがしけれど 南無阿弥陀仏 口と心の ひまにまかせて 』延宝8年(1680年)5月この世を去る 行年58 五代将軍綱吉公の母堂桂昌院の歌に『 ありがたや 光と共に 行く末は 花のうてなに 於竹大日 』 於竹さんが愛用し貧困者が市をなしたと言う有名な於竹井戸はこの地にあった。
名前 |
於竹大日如来井戸跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.5 |
説明丁寧場所柄良く残せたと思う所。